メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第49回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2009.5.15
■拡張の群像 その3 昨日の敵は今日の友?
「ゲンさん、久しぶりやな」
そう言いながら、オオモリが店に入って来た。
オオモリというのは、以前、東海の拡張団におったときの仲間やった男や。
旧メルマガ『新聞拡張員ゲンさんの裏話』(注1.巻末参考ページ参照)にも良く登場していたから、覚えている方もおられると思う。
簡単にそのキャラを説明すれば、自分勝手で毒の強い性格ながら、どこか憎めんところのある男ということになる。
味方も多いが敵も多い人間や。
歳はワシより少し上で、もうすぐ60になるという。かれこれ10年近い付き合いになる。
それが、今日はその東海の頃とは違う他紙他団の拡張員として入店して来た。
拡張員の中には、営業する新聞を変え、団を転々とする者もおる。
ワシがそうやさかいな。
良く言えば、自由を求める「営業さすらい人」。平たく言えば、行き当たりばったりの「根無し草」というやつや。
個人の性質もあるが、この業界のシステムがそうさせるというのもあると思う。
すべてやないにしても、ワシのように特定の新聞社に対する愛社精神のない人間も、そう珍しいことやない。
売り込む新聞なんかどこでも同じやという思いがある。
どの新聞でもその気になれば大差なく売れるし、売ってみせると。
一般の人からすれば、どこの新聞でも売るというのは、いかにも節操がないと思われるかも知れんが、ある意味、それも仕方ないと考えとる。
新聞社にとって、営業員である拡張員は本来、重要な存在のはずやが、それを全面に出して認め、扱うようなことはほとんどない。
それどころか、拡張員の存在そのものですら、世間に対して隠そうとする傾向にある。
少なくとも、その存在を新聞紙面で大々的に知らせるようなことはない。
拡張員は表向き、販売店に雇われとる営業員ということになっとるが、実際は新聞社と直接、業務取引契約書を交わしている拡張団(新聞専門営業会社)の社員、もしくは所属員ということになる。
「こんな苦労、こんな努力をして現場の営業員は新聞を売っているんですよ」というのが新聞紙面にあれば、世間の拡張員を見る目がいくらかでも変わるかも知れんと思うが、そういうものは一切ない。
新聞社にとって、ワシら拡張員は必要であると同時に悪評をばらまく疎(うと)ましい存在との思いもある。
もっとも、そう思われても仕方のない者がおるのも事実やけどな。
そういうこともあってか、業界内でのワシらの地位は低い。最下位と言うてもええ。
その裏付けとして、新聞社、およびその地域の販売店の名前や存在は知られていても、拡張団の名前やその実態の分かる一般の人は、ほとんどおらんさかいな。
実際、「拡張員」という言葉自体をこのサイトで初めて知ったと言われる方もおられるくらいやしな。
その知名度のなさ、低さは異常と言うてええくらいやと思う。
一般の会社やと、営業職と言えば花形部署というケースが多いけど、この業界では違うということや。
普通に考えて、そういう扱いを受けとる者に、新聞社への愛社精神など育つわけがないわな。
拡張員にあるとすれば、それは拡張団への愛社精神であり忠誠心やと思う。
世話になった団、または団長のために頑張ろうと思う者は多いやろうが、新聞社のために尽くそうと考える拡張員は少ない。
そんなワシの姿勢に対して、サイトに時折、「営業は売り込む商品に愛着を持つべきではありませんか」という類のメールが寄せられてくることがある。
それはそのとおりや。それに間違いはない。自分がええと思えるものやないと人に勧めても説得力も弱いさかいな。
しかし、新聞の場合は、その事情が少し違うということや。
特定の新聞の熱烈なファンという人は別にして、どの新聞でもそれほど大差ない、同じようなものやという認識の購読者は多い。
したがって、特定の新聞の長所を論(あげつら)って営業しても、「そんなにいい新聞なら購読しましょう。切り替えましょう」ということにはならず、あまり効果がないというケースがほとんどやと言える。
それよりも、「私が勧める新聞だから買ってください」と、人間関係を作った上で、情に訴えた売り込みをする方が確実に成果が上がる。
少なくとも、ワシはそういう営業を心がけてきた。
極論すれば、新聞を売るのやなく、自分自身を売るのやと。買って貰うのやと。
故に「私が勧める新聞」であれば、どの新聞でもええと考えるわけや。
但し、同じ地域において、違う新聞を売るのは、いささか考えものではあるがな。
例えば「Y新聞のゲンさん」が、「A新聞のゲンさん」になったんでは、その地域の人が混乱する。
せっかく築いた人間関係を崩し、信用も落とすことになりかねん。それでは却ってマイナスになる。
あくまでも、その地域においては、「特定の新聞のゲンさん」であるべきやと思う。
せやから、ワシが銘柄を変えて営業するときには、必ずその地域も変えるようにしとる。
これが、新聞記者並に社会的地位と収入が保証されとるというのなら、そういうこともできにくいやろうが、それと対極に位置する拡張員にはそれが簡単にできるということや。
もっとも、それが一般に理解して貰えるとは考えてないがな。
せやから、「節操がない」という批判には異を唱えるつもりはないから、甘んじて受ける。
ただ、問われれば、その事実と思いを伝えるだけでな。
そして、その是非をどう判断されるかは、これを読まれた方が決めればええことやと思うとる。
「ゲンさんは、ここの営業部長さんやてな」と、オオモリ。
「ええ、肩書きだけ」
ワシは、専拡(新聞販売店の専属拡張員)やが、ここの店主イケダに誘われたとき、その営業部長の肩書きを与えられた。(注2.巻末参考ページ参照)
「それで、今日のオレらの担当は、ゲンさんということか?」
「そういうことですわ」と、ワシ。
普通、拡張員の入店、引き継ぎ(拡張終了後の監査)に対応するのは、新聞販売店の従業員の仕事やが、ここではワシがその役を一手に引き受けとる。
他の従業員の負担を少なくするということもあるが、ワシなら、こういう連中を扱い慣れとるということの方が理由としては大きい。
拡張員の中には、販売店の従業員を舐めてかかる者もおるが、ワシならそういうのもないということでな。
俗に言う、「睨みが利く」というやつや。
「今日の入店は何人で……」と言うたワシの視線の先に、タケシがいた。
「何や、お前もオオモリさんと一緒の団やったんか?」
意外と言うしかなかった。
「そうなんや。このタケシの奴、オレにどこまでもついてくると可愛いことを言うさかい、東海のY団を辞めた後、今の団に引っ張ったんや」
それをオオモリは、自分を慕ってのことやと思うとるようや。
ワシには、とてもやないが、それを額面どおりには受け取れんがな。
何か裏がある。
「お久しぶりです。ゲンさん。そういうことなんで、よろしく……」
そうタケシが、ニコッと笑って見せた。
「……」
このタケシというのも、旧メルマガ『第121回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■拡張員列伝 その6 変人、タケシの陰謀』や『第146回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■変人タケシの陰謀 Part2 新たなる計画』に登場しとるから、知っておられる方もおられると思う。
もっとも、あまり知らせたくはなかったがな。
それらの話にしても、ワシはハカセには、ひんしゅくを買うから止めとけて忠告はしたんやが、やっこさんが面白がって発表したという経緯があったくらいやさかいな。
はっきり言うて、こいつの話を聞けば、メシが確実に不味くなる。
過去、二度、このタケシに纏(まつ)わる話をした際、
これを読み始められた読者に警告するが、まだ食事前なら先にそれを済まされてから、続きを読まれることをお勧めする。
話はそれなりに面白いとは思うが、確実に食欲はなくなるはずや。読み終わった後で、文句を言われても困るさかいな。念のため。
ただ、それ以前からの読者は、先刻、ご承知のことやと思うが、まだの人で、これからそれを見られるのなら、間違うても食事前に読むのだけは止めといてや。
確実に食欲をなくすさかいな。
そして、今回の話にも、それが言えると警告しておく。
と、それぞれの話の冒頭でそう断りを入れとる。そうせな、その話ができんかったさかいな。
それを承知して頂いた上で言うと、先の話は「ウンコ爆弾」、後のは「病人の痰」で、そのオオモリに攻撃を仕掛けようとしていたというものや。
その詳しい内容は、悪いけどここでは控えさせて頂く。
それを知りたいという方だけ自己責任で、先に示したページを見てほしいと思う。
結果的に、いずれもその試みは未遂に終わっとるが、少なくとも、そこまでのことを企てていたタケシがオオモリを慕うということなど、ワシにはとてもやないが信じられんということや。
何か裏がある。
そう思わずにはいられんかった理由がそこにある。
そのオオモリのグループ4人と一緒に昼食を兼ねて喫茶店に入った。
拡張員の昼食タイムは長い。一般的なサラリーマンの倍から3倍は、そこに居座っている。
これだけを聞くと、取り留めもない雑談をしてるか、暇を持て余してサボっとるだけのように思われるかも知れんが、多くの拡張員は、この時間を結構、有効に使うとるもんなんや。
このオオモリやタケシにしても、今日いかにすればカード(契約)を上げることができるかという一事に、その時間の大半が割かれとる。
一見、ええ加減な風に見える二人も、その点においてはプロやと言える。
拡張員に限らず営業員たる者、仕事せなあかんという義務感だけでは大した成果を期待することはできんさかいな。
やらされる仕事には限界があるが、自ら望んでする仕事にはその限界がない。
中でもこの新聞営業には、貪欲なまでの探求心と折れることのない不屈の精神力が求められる。
それには、どんな些細なチャンスをも逃さんという姿勢が重要になる。
その姿勢が、この二人にはある。
ただ、若干、その考え方が常人とは違うだけでな。
「ゲンさん、ここの過去読の情報はどのくらいある」と、オオモリ。
これは多くの拡張員が尋ねることでもある。
過去読というのは、止め押しと言うて現読継続の依頼に失敗した客のことを指す。
理由はいろいろある。
単に交代読者と言うて、一定の期間毎に新聞を2社、または数社に渡り変えて購読しとるというケースか、その販売店と何らかのトラブルがあって離れた読者なんかが、そうや。
こういう場合のデータは後者のものが圧倒的に多い。
あるいは、販売店の渡せる限度以上に拡材を要求する「乞食読者」と呼ばれる者も、それに入る。
これは販売店側の理由で拒否する場合がある。
問題の小さな客は、そこの従業員でも処理出来るから拡張員に依頼するケースは少ない。
拡張員に廻ってくるのは、販売店で処理できんかったやっかいな客ということになる。
それでも、ないよりかはマシやということになる。
一度は、その新聞を購読したのやから、次もそうする可能性が高いと考えるわけや。
それには、よほど揉めた客以外は「以前、お世話になった○○販売店の者です」と言えば、話くらいは聞いて貰える確率が高いということがあるさかいな。
この仕事は、インターフォンキックで門前払いというが大半やから、話ができるだけでも有り難いということになる。
話さえ聞いて貰えれば落とせるという自信のある拡張員は多い。また、そのくらいでないと、この仕事を続けていくのは難しいがな。
「それで、色付きは?」と、オオモリ。
「色付き」というのは、比較的簡単に落とせる客のことを指す、この業界特有の言い方や。
販売店の持っている住宅詳細地図のコピーには、現読が赤、約入り(先付け契約済み)オレンジ、見込みピンクというように、マーカーでその住宅ないしアパート、マンションなどの特定の客をランク毎に色づけして区別してある場合が多い。
「色」というのは、そういう意味がある。
その中から、オオモリは、ワシとの誼(よしみ)ということもあり、その比較的簡単な客を教えてくれと言うてるわけや。
これは、その販売店の考え方次第やが、その拡張員を上手く使う方法の一つとして、その手の客を教え、わざと契約を上げさせるということがある。
もちろん、本来ならそういうことをする必要は微塵もないんやが、あまりきついバンク(販売店の営業エリア)やと思われると拡張員の意欲を削ぎ、入店するのを嫌がるということが起きる。
あるいは、入店するメンバーの質が落ちるということにもなる。
そうなると、その団によるカードが見込みにくいということになるわけや。
それを防ぐために、その楽な客を何軒か、データとして教える販売店もある。
ワシは、店主のイケダに営業に関することすべてを一任されとるから、そうしようと思えば自由にそれができる。
「そう言われるのは分かってましたんで、リストアップはしてます」と、別紙をオオモリに渡した。
人を上手く使うためには、その能力の見極めが必要になる。
そのリストには、ワシがオオモリの能力を判断した上で、この男になら落とせるやろうと踏んだ過去読者を記載している。
オオモリという男は、どう贔屓目(ひいきめ)に見てもお世辞にも知性的とは言えんが、その記憶力の良さだけは図抜けとる。
それが分かったのは、こいつと昔、連勧で一緒に仕事をしたときやった。
連勧というのは、拡張の仕事の形態の一つで、グループで一緒に行動するやり方のことを言う。
主に1台の車に乗り込んだメンバーでする。ワシらの場合は4、5人というのが多かった。
これは、ほとんどの場合が、団からの指示、命令でそうする。
拡張員が率先して連勧を希望することは少ない。
これは、サボり防止対策用の営業という側面が強いからな。
拡張員がサボるのは個人で仕事をしとるときが多い。
個人的になら、それでその日、成績が悪うても調子悪かったで済ませることができる。
個人が我慢するか、その責めを一身に負えば、それで済むことやと考える。
しかし、グループやとそうはいかん。
特にその中のリーダーとなる人間は責任重大やからある程度、必死になる。
他の人間の手前、ええ格好もせなあかんしな。
そのリーダーにオオモリがなったことがあった。
連勧というのは、別名、データ拡張と言われとるくらい、データ中心に廻るのが一般的や。
そのデータのほとんどは過去読ということになる。
その日、その販売店に着くとそれ専用の地図と過去読者の一覧表を渡された。
この日のリーダーはオオモリやから、その指示通りに皆が動く。
リーダーには逆らえんということやなしに、逆らわん方がええということや。
特に連勧の場合はな。
どんな相手と組むことになろうとも、ワシはそうしとる。
そして、その日はある程度、どういう結果になろうと仕方ないと割り切る。
「ゲンさんよ。A地区の山岡のおばはんの所から廻ろうと思うんやけど、どないや?」
「ええんと、違いますか。オオモリさんに任せますわ」
こういうとき、下手に出しゃばって「いや、B地区からの方が効率ええと思いまっせ」などと例えそう思うてても言わん方がええ。
その日、カードの上がりが悪かったら、それを理由にされかねんからな。
特にこのオオモリという男は、そういうことを平気で言うタイプやさかい、よけいや。
上手く行けば自分の手柄、悪ければ人の所為(せい)にするというのは、この男にとっては当然のことやからな。
せやから、本当はこの場でワシに何か言うてほしいわけや。
ワシが口を出したということなら、その日、成績が悪うても言い訳ができると思うとる。
もちろん、そんな誘いには乗らんがな。
ちなみに、この連勧のリーダーに指名するというのは、何も団がその実力を認めとるからとは限らん。
理由はいろいろあるが、古株で普段良うサボるから「ネジを巻いとけ」というのが最も多いようや。
このオオモリの場合が、まさにそれやったと思う。
「よし、頑張って行こうか」
オオモリのかけ声で仕事が始まる。まだ、午後1時過ぎや。
まあ、この時間から営業を開始しても別に不思議はないんやが、拡張員でこの時間から動く者は少ない。
特にこのオオモリは、こういうリーダーでもやらさん限りは、まず動こうとはせん。
フリーの場合、放っといたら、仕事を始めるのは、ええとこ夕方の5時くらいからやさかいな。
古株というかベテランの拡張員には、そういうのが多い。
独身、および共稼ぎの多い低家賃のアパート、マンションを中心に狙う者は特にそうや。
業界で言うところの「ガサ廻り」というやつや。
拡材でなびくのは、概ねそういう所の住人が多いと、その連中は考える。
それを好む拡張員の人気スポットということになる。
当然やけど、そういう所は、仕事が終わらな住人は帰って来ん。
昼間は留守が多い。早めに行っても無駄やと思うから、よけいにその時間になるんやがな。
それなら、それまで他を廻ればええやないかと思うかも知れんが、こういうオオモリのような連中にそういう発想はない。
その間際までサボろうとする。
しかし、連勧ではそうはいかん。
のんびりしててカードが上がらんかったら団長や幹部からきつく叱責される。
余裕をかまして成績が悪かったら何を言われるが分からんから、早めに初めとるということや。
叱責というと怒られて終いのように思うかも知れんが、営業会社の叱責というのは普通で考えるよりも過酷で厳しい。
特に部下を率いての連勧に成績が悪いと、よけいや。
さすがに、今の時代、ドツく(殴る)ような暴力を振るうケースは少ないが、それよりも、もっと陰湿な責めが普通にある。
その団で多かったのは、こういう連勧で最悪な結果を招いた人間に与える罰として、朝礼時に土下座させるというものや。
上がったカードが人数分以下やったら、間違いなくそうなる。そのカードの分配ができんさかいな。
連勧の場合、基本的に上がったカードは、その人数で公平に分配するという暗黙の決まりがある。
通常のように、上げた者のカードにはならん。
それやと、同じデータで廻る場合、ベテランは確率のええ客だけを選び、駆け出しはカスの客を廻されるということになりかねんさかいな。
実際、昔はそういうことが多く、この分配で良う揉めとった。
拡張員も金銭が絡むと必死やから、殺し合い寸前の喧嘩沙汰というのも珍しいことやなかった。
一般には知られてないだけでな。
ちなみに、以前、タケシがオオモリに恨みを抱いて、つけ狙っていた理由というのが、この分配による不満やったさかいな。
これによる仕置きは、やらされる人間にとっては、見た目以上に辛いものがある。
晒(さら)し者やから当然やけどな。また、それが団の狙いになる。
そんな恥をかきたくなかったらカードを上げろということや。
連勧で廻るのは普通の一軒家が多い。アパートやマンションは希や。
そういう所は、店の従業員が行くし、何より放っといても拡張員が勝手に廻る。
結果として、過去読のデータには残っとらんということが多い。
一軒目の前で車が停まる。
「ここのヤマオカのおばはんは、3年前にイトウが上げた(契約した)客なんやが、そのとき、店に内緒で商品券1万円寄こせと言うて巻き上げとんねん。ずっと、Y紙にする言うてな。今はA紙や。せこい、おばはんやで。ゲンさん、そのへん突(つつ)いたって。頼むわ。ワシらこの突き当たりのムラタの家に行っとるから……」
販売店から貰うデータにそんなことは当然やけど書いとらん。
オオモリの言うイトウというのは、以前、団におって辞めた奴や。その人間の取った契約の経緯を知っとるということになる。
「ごめん下さい。以前、お世話になっていましたY新聞の者です」
インターフォンでこう言うと、しばらくして年輩の奥さんが出て来た。オオモリの言う「ヤマオカのおばはん」や。
話通り、強欲そうな雰囲気の強い客やった。
「今、うちはA紙取っとるからいらんで」
現在A紙を購読しとるのもオオモリの情報にあった。これも、販売所のデータにはない。どこからか仕入れた情報や。
これだけやと、たまたま知っとったということも考えられるが、このオオモリは過去に行ったことのある地域の人間の情報は驚くほど良う仕入れとる。
しかも、それを何かを見ながらということやなしに話す。暗記しとるわけや。
「以前、うちのイトウが商品券を余分に店に内緒でお渡ししているはずなんですけど……」
オオモリからの情報をそのままぶつける。
「そんな、昔の話、今更言うて、どうすんの? 返せ言うのか?」
「そんなアホなことは言いません。いえね、今、読まれているA紙の後に、また、うちのを取って頂いたら、同じようにサービスしますんで……」
これでカードになった。
多少、拡材が余分に必要にはなったけど、これも、さっきのオオモリとの会話の中に暗黙の了解事項として含まれとることや。
あまり、大きな声では言えんが、販売店が何度行っても失敗する客というのは、こういうケースが結構多い。
店に内緒で拡材を渡しとるというケースや。もちろん自腹でやがな。
客からその事を言う場合は販売店もそれが分かるから、そこで無理するということもある。
販売店がその客をどうしも欲しいと思えば同じようなサービスをする。そういう客なら今回のデータとしては残っとらんわけや。
また、販売店がそういう客は必要ないと判断したら、データには残っとるが、そこで勧誘する条件を拡張員に釘刺す場合がある。
余分にサービスするなとな。
このヤマオカという客は、その事をその販売店には言うてないということや。
こういう客は、販売店に言うても無駄やと思うとる。
販売店から、通常のサービスだけしか提示せん人間を何度か断っていたら、いずれワシらが来ると知っとるわけや。
そういうことを、あからさまにワシらに言う客もおるからな。
簡単に契約するにはそういうわけも含まれとる。
それにしても、このオオモリは、そういうことは良う覚えとる。それだけは感心する。
ワシにはその真似はできん。
そら、ワシでも懇意にしとる顧客の情報なら覚えとるが、このオオモリのように他人のも含めて何十軒、何百軒もの家の情報を軒並み暗記するという芸当は無理や。
せやから、ワシは昔から手帳を常に持ち歩くようにしとる。これは、建築屋の営業を始めた頃からの癖でもある。
営業に、データは欠かせん。そのためには、こまめにメモを取るしかない。
記憶力にはそれほど自信もないし、限界があると考えとるさかいな。
しかし、こいつは何でも良う覚えとる。
古い話になると5、6年前まで遡(さかのぼ)ることもあるというから驚く。
せやけど、こいつにもっと驚かされるのは、それが拡張に関する記憶だけで、普段の記憶は昨日のことすらまともに覚えとらんということや。
特に自分の都合の悪いことは絶対に忘れる。
例えば「今、たばこを買う小銭がないねん。明日必ず返すから、300円貸してくれ」と言うて、それを貸すとする。
すると、それを翌日まで覚えといて自ら返すということなんかはまずない。
たいていは「忘れてた」と、とぼける。
まあ、これに関しては本当に忘れとるのかどうかの判断は怪しいがな。
いずれにしても、このオオモリはその使い方さえ間違わなんだら、それなりに役に立つ男ではある。
その出入りが増せば増すほど、その真価を発揮する。
はずや……。
ただ、一抹の不安は残る。
それはタケシの存在にある。
オオモリとタケシの二人に一体何があったのか。
本当に仲間になったというのか。
それとも、また、タケシが性懲りもなく、くだらんことを考えとるがための作戦の一環なのか。
もし、そうなら、どっちがくたばっても構わんけど、せめてワシの庭、シマ内だけは荒らさんといてほしいと願う。
いずれにせよ、心配のタネが増えた。
そのことだけは確かなような気がする。
参考ページ
注1.メールマガジン・新聞拡張員ゲンさんの裏話・バックナンバー
注2.第153回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ゲンさんの決断 前編
第154回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ゲンさんの決断 後編
注3.第121回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■拡張員列伝 その6 変人、タケシの陰謀
第146回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■変人タケシの陰謀 Part2 新たなる計画
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