メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第55回 ゲンさんの新聞業界裏話


発行日 2009.6.26


■週刊新潮の押し紙特集記事について


以前からサイトにいろいろとご協力を頂いている新聞販売店関係者の方から一通のメールが寄せられてきた。


最近週刊新潮にて、新聞の押し紙について特集しております。

貴サイトにて、折りを見てこの特集記事の感想をゲン様にお伺いしたいと思うのですが、何卒御考慮願います。

もはや正直に仕事する以外、新聞販売店の生きる道はないのではないかと、深く考えさせる特集であると、私はこの記事を読んで思いました。


最近、こういった週刊誌に取り上げられた新聞関連の記事のコメントを求められるケースが増えた。

つい最近の『第53回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■救いのない拡張員の人たちのためにできる事とは』でも、週刊プレイボーイ6/22号に「新聞拡張員がハマった『平成のタコ部屋』ルポ」という記事についてのコメントを求められて話したばかりや。

まあ、それだけ、ワシらの意見というものを重要視して頂いているということになるのやと思うがな。

早速やが、この方の言われる、6月18日発売の『週刊新潮6月25日号』の特集記事『実名告発! 新聞販売店主たちはこうして「水増し部数」を負わされた』というのを読ませて貰った。

内容は題名からも察せられるように、その押し紙に苦しめられている複数の販売店店主の告発内容が掲載されているというものや。

その押し紙に苦しめられているという実態はワシらも直接、耳にすることがあるさかい、掲載されている告発については、ほぼ事実やと思う。

特にハカセは、その被害に喘ぎ、裁判を起こしている、または検討しているという方と実際に会って取材もしとるから、その悲惨な状況も良う分かっとると言うしな。

ちなみに、そのときの取材をもとに、2007年11月23日、旧メルマガ『第172回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ある地方紙販売店の闘い Part1 その前夜』(注1.巻末参考ページ参照)というのを発行したことがある。

また、新しいところでは、今年、2009年3月30日掲載の『第41回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■マイナーワーカー同盟座談会 その2 新聞の闇と戦う人々』(注2.巻末参考ページ参照)でも押し紙に苦しめられているいう販売店店主の話を取り上げたものもある。

それらの内容と、今回の週刊新潮の特集記事にある新聞販売店店主の方々の告発には類似する箇所と共通点が数多くあると思う。

週刊新潮の記事の内容をすべてここに示すのは、著作権の問題などいろいろ差し障りがあるので控えさせて貰うが、ワシらがメルマガで言及したものには、それはないさかい、その代用として、その箇所だけを、その両方から引用する。


第172回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ある地方紙販売店の闘い Part1 その前夜 より


この押し紙については、新聞社と個々の新聞販売店との間で、かなり違いがあるから、一概にこうやと決めつけられることでもないがな。

同じ新聞社であっても、ある販売店では、その押し紙がほとんどないというケースもあれば、違う販売店には、押し紙と実売部数がほぼ同数というワシらでも俄(にわか)には信じがたいことが行われとる所もあるという。

ちなみに、ナカイの店での押し紙比率は20%弱ほどやった。

この程度では、全国的に言うても特別、過酷な数字というほどのものやないが、ナカイの所属する新聞社では、全国紙にありがちな、それに対する補助金制度というものが一切なかった。

そんな状況にあって実売部数が1000部にも満たない販売店で、押し紙が200部近くあるというのはきつい。

ナカイの店では新聞の仕入れ価格は、販売価格の約6割、2300円ほどになるから、毎月、45、6万円は何もせず消える計算や。

それが、ローブローのように利いてくる。

しかも、その押し紙が減ることは状況から考えにくく、徐々にやが増えていっとるのが実状やった。

加えて、押し紙による利点とされとるチラシの収益も、販売店にはまともに入らんシステムになっとるというのも辛い。

チラシの入りは平日で15枚、金、土曜日で30枚程度やから、業界としては少ない方やない。どちらかというと多い方やないかと思う。

しかし、全国紙のように、業者が直接、販売店にチラシを持ち込むということはない。

折り込みセンターというのがある。新聞社の子会社のような所や。ここに、すべての業者からのチラシが集まり、そこから各販売店に配られる。

当然のように、かなりのマージンが、そこで差し引かれる。

せやから、チラシがあっても、他の全国紙ほど、それで潤うということがないわけや。

あるとき、ナカイは意を決して担当員に直談判したことがある。

「押し紙がきついから、少し減らしてもらえませんか」と。

すると、その数日後、新聞本社に呼び出され、かなり叱責された。

さすがに、押し紙を断ったからということやなかったがな。

表向きは、増紙が満足にできてないことへの叱責や。新聞社に言わせれば、成績不良者の指導、教育ということになる。

どこの新聞社でも大なり小なり販売店には増紙を要求する。

現在の状況が新聞社に分からんはずはないが、それを認めてたんでは示しがつかんと考える。

販売店の経営者には、多くを稼げんでも安定した収入があって店が維持できたら、それで十分という考えの者が多い。

しかし、新聞社はそうやない。

部数が減ったら減ったなりの経営でええという方向には思考が向かん。販売店の経営者と違うて現状維持で満足とはならんわけや。

そのことがあった翌月から、さらに押し紙が増えた。


第41回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■マイナーワーカー同盟座談会 その2 新聞の闇と戦う人々 より


スヤマは、ある新聞販売店の店主やった。

過去形なのは、つい最近、廃業したからや。正確には、廃業させられたということになる。

「実は……」

早速という感じで、スヤマが話し始めた。

今から25年ほど前、スヤマはある新聞販売店の、「のれん分け」という形で、500部ほどの小さな販売店の経営をすることになった。

当時、その辺りは片田舎で家も少ない辺鄙(へんぴ)な地域やったが、スヤマがその販売店を引き受けてから、3年ほどの間に急激な宅地造成により住宅が建ち並び、それに伴って部数も2000部近くにまで増えた。

ただ、その後は住宅が増えることがあまりなく、ほぼそのままの部数で推移していったという。

スヤマは、それで十分満足していたのやが、数年ほど前から赴任してきた新聞社のカケイという担当員が、「それでは困る」と難色を見せ始めた。

「何とか、注文部数を少しでもいいですから増やして貰えませんか」と。

それでないと、担当員としても立場がないと言う。

普通の企業の感覚やと、500部から2000部へ、4倍も伸ばしたというのは、それだけで十分評価される業績になる。

しかし、新聞社には部数至上主義という考え方が根強いから、常に部数が伸びてないことには評価の対象にはなりにくいとされとる世界なわけや。

新聞社にとって減紙(新聞の部数減)という言葉はないと言われとるほどやさかいな。

どの時点からであっても減紙になるということは、すなわち、その販売店の能力のなさを物語るものとされていた。

その頃、スヤマの販売店では、毎月、数部から20部くらいの間で契約切れなどによる関係から減紙というのが続いていた。

そのことを販売部長から責められていたカケイは、スヤマに「形だけでもいいですから、注文部数を増やして貰えませんか」と口説いた。

当然のように、「そうして貰えないと……、分かるでしょ?」と、はっきりとは言わんが、「改廃」を臭わせているというのは良う分かったから、スヤマもそれに応じるしかなかったと言う。

最初は月10部程度の水増しやったのが、数年のうちに、いつの間にか500部を越えるまでになっていた。

その水増し部数は、タダやない。当然のことながら仕入れ代金として新聞社に支払わなあかんものや。

売ることのない新聞の仕入れを続けていれば、いずれは経営を圧迫していくことにつながる。

もっとも、それを補うかのように、いろいろな名目の補助金を貰えるようにはなったが、そのマイナス分が完全にカバーされるわけやない。

長年に渡るそれは徐々にではあるが、確実にボディブローとして効いてきたと言う。

「ええ、形の上では、私の希望注文部数ということになっていますが、それを断われる雰囲気ではありませんでしたから……」と、スヤマ。

このあたりが新聞社の狡猾なところで、販売店の店主に面と向かって「これだけの部数を余分に注文しろ」と言うことは、まずない。

言ったとしても、書類などの証拠に残るような手段でそれと伝えることもない。

「そうして頂けないと、困ったことになりますよ」と言うくらいや。

それが効く。

カケイのような担当者が、そんな含みのあるような言い方をするのは、新聞社が販売店に対し表立って「押し紙」を強制できん、あるいはその証拠を残せんという理由もあるからや。

新聞業における特定の不公平な取引方法について、1999年7月21日、公正取引委員会で告示されたものがある。

俗に、「新聞特殊指定の禁止行為」と呼ばれとるものが、そうや。

その第3項に、『発行業者が販売業者に対し、正当かつ合理的な理由がないのに、次の各号に該当する行為をすることで、販売業者に不利益を与えること』というのがあり、それには、

一、販売業者が注文した部数を超えて新聞を供給すること。販売業者からの減紙の申し出に応じない場合も含む。

二、販売業者に自己の指示する部数を注文させ、当該部数の新聞を供給すること。

とある。

それらに新聞社が違反すると、その「新聞特殊指定」が見直され廃止される可能性がある。

新聞社が、販売店に「押し紙を受け入れろ」という直接的な指示ができん理由がそこにあるわけや。

そのため、スヤマのようなケースは事実上の押し紙やと、ワシも思うのやが、その証拠を示すのが難しいということになる。

証拠がなければ、言うた言わんの水掛け論にしかならんさかいな。

「確かに、以前はそれでもなんとかやっていけてたんですが……」

ここ1年ほどで、頼みにしていた折り込みチラシが激減したのが痛いと言う。

それまで、押し紙分の仕入れ代金の負担は、補助金とその折り込みチラシ代金でなんとかペイすることができていた。

しかし、その折り込みチラシが激減すると、押し紙分の仕入れ代金の負担だけが重くのしかかってくる。

このままやとじり貧になる。

そう考えたスヤマは、担当員のカケイに「注文部数を減らしてください」と頼み込んだが、「そうなると、上からは無能と判断されますよ」と、暗にそれは認められんと拒否された。

しかし、このままでは、やはりどうにもならんと考えたスヤマは、翌月の注文部数を100部ほど減らして申告した。

すると、烈火の如く怒ったカケイから、「スヤマさん、あんたどういうつもりなんですか」と、電話がかかってきた。

「ちゃんとした、注文部数をやり直してください」と、半ば強制的に迫られたという。

新聞社の言うとおりにこのままの状態を続けていたら、いずれ借金が膨らんで、行き着く先は廃業するしかない。

それなら、少しでもその負担を和らげた方がええ。例え、新聞社に逆らってでもそうした方が得策や。健全な経営に戻すのが先決やと。

スヤマは、そう考えた。

そこには、25年も続けているスヤマの店を新聞社が、そう簡単に潰すはずがないという信用と安心感もあった。

カケイの言うてるのは、単なる脅しではないかとタカをくくっていたわけや。

そうやなかったと、すぐにスヤマは思い知らされることになる。

カケイの要請を無視したスヤマに、新聞社から1ヶ月後に業務取引を停止するという文面の通告書が届いた。

スヤマは、即座にカケイに連絡を取ったが、「上の決定やから仕方ない」の一点張りや。

販売部長にも直訴したが、「業績を悪化させた経営者と業務取引の継続はできない」と、ニベもない対応をされて終わりやった。

その後の新聞社の対応は早かった。

本社から男が二人、引き継ぎのためと称して送り込まれてきた。

後に、それが通称「SAT」と呼ばれる改廃専用の人間やと知った。

「SAT」というのは、その新聞社の有力販売店の役職者クラス(店長や主任だけ)および専業などで構成されているエリート集団とされている。

本社の意向を聞かない改廃店の引き継ぎ業務を主な役目とする専門組織とのことやった。

スヤマのような、辺鄙(へんぴ)な地域の販売店にその声がかかることはなかったが、噂では聞いて知っていた。

彼らの動きは素早く、スヤマの留守を狙って販売店に訪れ、言葉巧みに留守番をしていた、スヤマの奥さんに承諾書にサインさせて、その帳簿類とパソコンデータを押収したという。

気がつけば、僅かな引き継ぎ金だけを渡され、店から追い出されたのやと言う。

信じられんことに、その内訳の中に、軽自動車やバイク数台などの備品代一式が、僅か数万円という金額が記載されていたと話す。

それで否応なく買い取られるという契約書にサインさせらる羽目になった。

それが悔しくて、どうしたらええのかと相談したいということやった。


というのが、それや。

週刊誌の記事というのは、一般的には誇張された部分が多いというのが定説やが、事、これに関しては、ハカセが取材した内容、およびワシらが直接聞いたものと大差ないということで、その信憑性は高いと思われる。

その他にも、ワシらのところへは、掲載を拒否、あるいは猶予を条件に聞いた話も幾つかあるが、それらも大筋では似たようなものやった。

そのいずれも、週刊誌の記事に負けず劣らずの過酷で悲惨なものばかりや。

上記二つのメルマガの記事は、ナカイ氏およびスヤマ氏に掲載許可を貰った上で公開したものやが、ワシらのサイトには、そういうものの方が珍しいと言える。

その週刊誌には、それを訴えられた方々のすべてが実名ということやが、世の中にはそうするのを嫌う人もおられるということや。

理由は、それぞれやが、そうすることで、さらなる被害を回避したい、今更、騒ぎ立てても仕方ないというのが多かった。

この週刊新潮にも寄稿されておられ、押し紙問題の第一人者と目されている黒藪哲哉氏の『新聞販売黒書』(注3.巻末参考ページ参照)というサイトのもとへは実名も辞さずという方が訴え、相談されるのやと思う。

そして、ワシらのサイトへは基本的に匿名を希望される方が多い。

黒藪氏がジャーナリストとして、不正を暴くということを主眼に置かれているのに対して、ワシらは逆に名指しの暴露や批判はしないという立場を貫いている。

不正行為に言及することはあるが、その場合でも、あくまで、その事象のみに止めとる。

良く言えば、「罪を憎んで人を憎まず」ということやが、一般的には、黒藪氏の方が巨悪に立ち向かっている崇高な姿勢やと映り、評価されるものと思う。

支持する人も圧倒的に多いはずや。

その点において、ワシらには何の異論もない。黒藪氏のそれは尊敬できる行為やと考えとる。不正を暴くという人は世の中には絶対に必要やと思うさかいな。

ただ、ワシらにはその真似はできんし、そうするつもりがないというだけのことでな。

ハカセは、その黒藪氏とは直接の交流はないが、両方と関わり合いの深い、ある販売店関係者の話によると、黒藪氏もワシらのサイトのことは良く知っているとした上で「質の違うもの」と認識されておられるという。

ワシらも同感で、それでええと思う。

世の中には、いろいろな意見や考え方の人が存在してて当たり前やし、また、そうでなかったらあかんとも考えるさかいな。

黒藪氏のような不正を暴くサイトに真実を訴えたいという人もいれば、ワシらのようなサイトに匿名で話を聞いてほしいという人もおられるわけや。

その選択肢は多ければ多いほどええ。

そのいずれかで救われるのなら、それが一番ええことやと思うしな。

新聞各社は黒藪氏には脅威を感じとるようやが、今のところ、ワシらにはまったくと言うてええほど警戒心はないようや。

結構、新聞社に対しては辛辣(しんらつ)なことを言うてるのやけどな。

まあ、それには直接の名指しによる批判をしていないということと、悪い事ばかりを言うてるわけでもないということで、ある意味、突っ込みどころがないのかも知れんがな。

形の上では、完全に無視されとる格好や。

ただ、新聞社の行為を言及することについては、ワシらは絶妙のコンビやとは思う。

ワシは、業界の最前線で働く拡張員やから、その立場からの見方というのがあるし、ハカセは一般人で業界とはまったく利害関係がないということがある。

若干やが、ワシが新聞社、および業界寄りなのに対して、ハカセは新聞社側の姿勢を一部否定しとるようなところがある。

それを足して2で割ると、ちょうど中間になるというところかな。

何事も一方からだけの視点ではあかんと、ワシらは折に触れ言うてるが、それが言えるのも二人の異なった見方があるからこそやと思う。

よほどの凶悪犯罪とか、明らかに不正やという事案以外は、多少の意見の相違は常にある。

今回の件でもしかりで、ハカセは実際にその押し紙の被害に遭われたという新聞販売店の経営者から話を聞いているということもあり、どうしても、その人たちの側に立った見方になると言う。

この週刊新潮の記事にしても、記者の憤りや誇張された表現が感じられるものの、その訴えには真実がこもっていると。

記事を見る限り、その押し紙により窮地に立たされ、あるいは廃業に追いやられた人たちは一様に、真面目に仕事をされてこられた人たちばかりやないかと。

それが、なんでこんな悲惨な状況に追いやられなあかんのかと。

理不尽この上ないという義憤にかられ何とかならんのかという思いが強いとも言う。

ワシも同じ業界の人間やから、それについては理解できるし、同情もする。

しかし、それと同時に、彼らにまったく落ち度はなかったのかということを考えた場合、一概にそうとも言い切れんやろうという思いもある。

ワシらが直接、話を聞いたスヤマ氏へも、「例え、新聞社からの押し紙があったにせよ、その分のチラシ代金を業者から取っているというのはおかしくはないですか?」と、指摘したくらいや。

それに対して、「確かに、仰るとおりです。私らはそれを当たり前としていたところがありましたが、言われてみれば、そのとおりですよね」という答が返ってきた。

業界で長く慣習となっているものについて、例えそれが違法性の高いものであったとしても、それと指摘されんと気づきにくいということがままある。

もっとも、それに気づいていたとしても、見て見んふりをしてしまうということもあるやろうがな。

今回の週刊新潮の取材に答えられた販売店の方たちも、その押し紙による被害は強調していても、自らの過ちには言及していないというか、その反省の弁は、少なくともその記事からは窺われなかった。

もっとも、実際にはスヤマ氏のように、それを指摘されれば素直にそれと認める販売店主の方が大半やから、単にその部分の記述が欠落しとるだけなのかも知れんがな。

あるいは、それを取材された週刊誌の記者は、この業界の事情を知り尽くしとるわけやないと思うから、そこまで突っ込んで指摘できんかったのかも知れん。

そのため単に聞かれない事に答えてないだけのことやという気もする。

例えそうであったにしても、被害者だと訴える以上は、加害者になるべきやないというのが正論やと思う。

新聞販売店には、新聞社から送られてくる公売部数と実際に配達する実売部数というのがある。

その差が余剰新聞ということになるわけや。

今回の販売店店主たちは、その余剰新聞の多くが押し紙であり、それは新聞社の詐欺的行為に等しいと訴えている。

そうであるなら、その余剰新聞の部数を含めた折り込みチラシ代金を業者から徴収しとる今回の販売各店の店主たちは、それについても明らかに詐欺的行為が成立すると自ら認めとるということにもなる。

それが一度だけとか、一過性のものやったと言うのなら、いざ知らず、たいていは長年に渡り慣習として続けてきたことやから、道義的、法的な見地で言えば、悪質性が高いということになる。

しかも、これに関しては、ナカイ氏のように新聞社が折り込みチラシの管理会社を設置して仕切ってない限り、その折り込みチラシ代金そのものを受け取ることのできん多くの新聞社には何の関係もない話ということになる。

販売店がその汚名を回避するためには、本来なら、実売部数である配達分の折り込みチラシ代金のみを業者から受け取っておくのが筋やなかったかと思う。

それをせず、配達されない折り込みチラシ分と承知の上で、その代金を受け取ったというのは、どんな理由があれ正当な行為とは言えんわな。

また、正直にそうしていれば、その証拠も残るわけやから、実売部数と新聞社が送ってくる部数との差もはっきりして余剰新聞の部数も客観的に証明できるはずや。

その上で、その余剰新聞の送付を断れば道理としては通る。

それでも尚、その余剰新聞の送付を新聞社が続ければ、これは完全に「新聞特殊指定の禁止行為」の3項の、

一、販売業者が注文した部数を超えて新聞を供給すること。販売業者からの減紙の申し出に応じない場合も含む。

というのに違反する。

ただ、現時点では、販売店がその公売部数の折り込みチラシ代金を業者から徴収しとるというケースが多いことを理由に、「販売店はそれを目当てに虚偽報告をしている」という新聞社の論法にも、ある程度の説得力を帯びることになるわけや。

きついようやが、仕方なくとか、やむを得ず法を犯したというのは認められる行為やないさかいな。

まあ、これに関しては、その折り込みチラシの納入業者が「詐欺行為や」と、その販売店を訴えん限りは罪に問われることはないやろうがな。

現在の押し紙の仕組みを作ったのは新聞社に間違いはないと思う。

新聞紙面の広告費をより多く得るためというのが、その理由として挙げられるが、それも確かやと。

いみじくも、その週刊新潮の記事に、主要紙の経営首脳の弁として、

「そもそも“押し紙”の起源は、広告料にある。戦後のある時期から、紙面の質ではなく発行部数によって広告料を決めるという基準を大手広告代理店が作ったたため、以後、各社とも部数拡大に血道を上げる結果になった。その部数拡大で最も手っ取り早い手法が“押し紙”でした」

とある。

おそらくは、それが真実やろうとワシも思う。

バブル崩壊までは、それほど押し紙をせずとも、新聞の購読部数は右肩上がりに順調に伸びていたからまだ良かったが、バブル崩壊後、部数が伸び悩むようになると、その広告費の減少を恐れた新聞各社が、その部数増のために「押し紙」をすることで補おうとした。

それが事の起こりというのも説得力がある。

世の中の仕組みは立場の強い者から弱い者へ押しつけられる。新聞販売店が、その新聞社の意向に逆らえんかったというのも良う分かる。

その点では、確かに被害者やと言える。

ただ、過去においては、その押し紙によるマイナスだけがあったのやなく、その分の折り込みチラシ代金の収入や新聞社からの補助金などで、何とかその経営を維持できていたものと考える。

その状況が現在も維持できていれば、今回、訴えられている販売店店主の方々も声を上げることはおそらくなかったはずや。

それが、ここ数年の長引く不況により企業からの折り込みチラシ依頼そのものが減少し、その収入が激減し、経営が立ち行かんようになったことで、その押し紙の負担に音を上げ始めるようになった。

今回の訴えの根本はそういうことやろうと思う。

もっとも、新聞各社は、販売店に余剰新聞があるのは承知してたとしても、その「押し紙」の存在自体は認めとらんがな。

その理由の大半は、新聞各社が販売店に対して「余剰新聞の発注はしない」ようにと公式に通達して、その誓約書まで提出させているからやという。

もっとも、圧力というのは、無言であっても圧力にはなり得るわけから、形だけの体裁が整っていれば良しというのは、どうかとは思うがな。

結果として、その記事のとおり販売店店主の「押し紙をなくしてくれ」という訴えが聞き届けられなかったというのは、状況的には「押し紙」が存在する何よりの証やと考えるさかいな。

その一方で、この業界には、その「押し紙」とは正反対なものに「積み紙」というのが存在するのも、また事実としてある。

新聞社から強制的に送られるのが「押し紙」なら、「積み紙」というのは販売店自らが望んでそうするという性質のものや。

こちらの方が歴史とすれば古いと思われる。

当メルマガ『第47回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画『社葬』による新聞への負のイメージについて 前編』(注4.巻末参考ページ参照)の中で、


その日の販売局長室。

販売局長の鷲尾は、秘書から「西部本社から販売実績が届いています」と、言われ、そのファックスを渡される。

それを見た鷲尾は、怒って電話する。

「変な小細工しやがって。おい、舐(な)めてんのかい。よくもこんな数字、ぬけぬけと送ってきよったな。いくら水増ししたんだ。洗い直して報告し直せ!!」と、怒鳴る。

これは、部数の粉飾について言うてるわけや。

当時には、まだ新聞社による押し紙というのはあまりなかった。

と言うより、そんなことをする必要がないくらい部数も安定して伸びていた時期やったからな。

押し紙が顕在化するようになったのは、バブルが崩壊し、部数の伸びにかげりが見え始めたことで、企業からの広告収入が減ることを恐れたためやさかいな。

少なくとも、この映画が制作された1989年頃には、そういうことをする必要すらなかったわけや。

部数の水増し行為は、その成績を粉飾することで担当者や販売店主の株を上げようと画策したからやという、鷲尾の怒りは、その当時の新聞社の姿勢を表しとるのやないかと思う。


これは映画の中の話やが、映画全体の流れとして、このエピソードをわざわざここで挿入する必要のない場面やったと思う。

おそらく、制作側がそのリアリティを示すために仕入れてきた情報のはずや。

ワシらも、古くからの販売店経営者から、昔は自らそうするケースも多々あったという話を聞いとるさかい、その事実があったと確信もしとる。

「万紙」と呼ばれているものがある。

部数1万部以上がそう呼ばれ、その万紙以上を扱う販売店は、業界でも大規模販売店として認められることになる。

部数至上主義を掲げる新聞社は、当然のようにその大規模販売店を大事にするからその待遇や諸条件もその他の販売店より良くなるのが普通や。

また、それは一つのステータスでもあるから、それに届くところにある販売店は多少無理をすることがある。

例えば、公称部数9000部の販売店があったとする。後、1000部あれば、その万紙販売店の仲間入りができる。

言えば見栄のためにそうするケースもあるわけや。

それと、すべての販売店が真面目に部数拡張のための営業をしとるのかというと必ずしも、そうとは言えんというのもある。

そこの経営者の資質もあるやろうし、そこで働く従業員次第というのもあると思う。

当たり前やが、ええ加減な営業しかせんかったら、部数を獲得することなんかはできん。

それでも、それをしたと見せかけるために、部数を粉飾するというのも実際にある。

ワシ自身、販売店の従業員と出入りの拡張員が結託して架空の契約をでっち上げとる場面を幾度となく見てきたさかいな。

もっとも、ワシには関係のないことやから、そういうのは見て見んふりはしてたがな。そんなものを一々暴いていても仕方ないしな。

「押し紙」を訴える側は、販売店の余剰新聞すべてが「押し紙」やという主張が多く、この「積み紙」については、あまり言及していないというところがある。

それには「押し紙」を、一方的な販売店だけの被害とした方が闘う上では好都合と考えてのことやろうが、物事は正確に伝えんと、その事実が広く世間に知れ渡った場合、新聞社への不正を追及する上において、それがマイナスに作用するのやないかと危惧するがな。

週刊新潮の記事には、今回の販売店店主たちの告発について新聞各社に質問状を送ったところ、

「明らかな事実誤認が少なからずあります。正確な報道を求めます」

「弊社が注文部数を超えてお送りすることはありません」

「一方的な主張については明確に反論していきます」

という返答がそれぞれあったという。

これに対して、週刊誌の記者は「各社とも痛痒の欠片すら感じていない。その傲岸がこそが自らの首を絞めていることに一刻も早く気がつくべきなのだ」と断罪しとるが、それは「積み紙」の存在とその事実を知らんから言えたことやないかと考える。

もっとも、現在、押し紙裁判に属する訴訟が行われとるから、新聞社の不正も含めて販売店店主側の違法行為も明るみに出るのやないかとは思う。

もちろん、それはそれぞれの事案で違いはあるやろうから一概には言えんやろうがな。

2007年6月19日、押し紙に関連した裁判が福岡高裁で行われた際、原告側が「押し紙があった」という主張に対して、新聞社側は、「店主に極めて悪質な部数の虚偽報告があった」と言って真っ向対立したということがあった。

これに対して裁判長は店主の虚偽報告を「強く非難されてしかるべきで、責任は軽くない」とする一方、「虚偽報告の背景にはひたすら増紙を求め、減紙を極端に嫌う同社の方針がある」と指摘した。
 
それにより、実質的に新聞社の主張を退け、その責任があったとした。

「販売店が虚偽報告をする背景にはひたすら増紙を求め、減紙を極端に嫌う同社の方針がある」と。
 
販売店の責任もあるが、新聞社の責任も軽くないとした判決は、まさに現代の大岡裁きと言うてもええくらい見事なものやったと思う。

この裁判は厳密に言えば、販売店の地位保全について争ったもので、押し紙そのものについて争われたものやないが、実質的な押し紙裁判での勝利として受け取った人も多いはずや。

ワシらもそう受け取ったし、直後は、「まさか」という印象が強かったさかいな。

それまでの押し紙裁判というのは、新聞社の主張どおり、そういう事実すらないということで、悉(ことごと)く販売店側の敗訴ということになっていたから、よけいや。

今後も、この手の裁判が増えるものとは思うが、実際のところ、裁判を考えているという販売店経営者がどの程度、いとるのかと思う。

週刊誌の記事とか、新聞批判の論調には、大半の販売店が押し紙の被害に苦しめられているような錯覚をさせるが、実際には訴訟まで考えとるのは数件、多くて数十件という程度やと思う。

全国2万店舗あるとされる新聞販売店からすれば、ごく僅かということになる。

もちろん、ごく僅かやから仕方ないとは言わん。

ただ、押し紙の被害者やという主張とは別に、新聞社には世話になった、良くして貰ったと考えておられる販売店の経営者が多いのも、また事実としてある。

そういう意見もサイトには数多く届いとるさかいな。

それからすると、新聞社の主張する「明らかな事実誤認が少なからずあります。正確な報道を求めます」というのも、「一方的な主張については明確に反論していきます」というのも、それなりに分かる気がする。

これは、裁判の場では良くあることやが、こちらの正当性を主張するためには相手の欠点、不正だけを攻撃するというのがある。

それが戦術やと言うてしまえば、それまでやが、認めるべきところは認めて、その上で主張せんと、ただの詰(なじり)り合いにしかならんやろうと思う。

それらの主張の是非は、裁判所なり、一般の第三者、世論なりが下せばええことやが、少なくともワシには不毛な争いとしか映らん。

そうやなくても、この押し紙が不正行為やというのは分かっても、それが一般にどういう被害を及ぼしているのかというのが、もう一つ、はっきりせんというのがある。

その押し紙がある故に新聞代が高くなっているとか、サービスが低下しているというのなら「それはあかん」と声を上げる一般の読者もおられるやろうがな。

サイトを開設して5年。

そこそこ名も売れ始めてQ&Aの存在もそれなりに知れ渡ってきたが、それでも尚、業界関係者以外の一般の人から「押し紙はけしからん」とか「押し紙はなくして貰いたい」という意見や相談がほとんどない。

一般の人には、その争点が良く見えんというのが実状やろうと思う。単に、お互いの利害を争っているだけのことやないのかと。

人は、我が身に降りかかる、あるいは関係することには敏感に反応するもんやが、対岸の火事には傍観者になるケースが多いさかいな。

誤解せんといてほしいが、そやからと言うて押し紙が仕方ないと言うてるわけやないで。

そんなものは、この業界から一掃されるべきやというのは、ワシらの終始一貫した主張や。押し紙など、本来あってはならんもんやさかいな。

ただ、そのアピールの方法には、注意せなあかんのと違うかなと考えとるだけのことでな。

ワシとすれば、新聞の勧誘トラブルと同じで、その事案毎に、その是非が違うてくるから、それぞれで対処して解決するべきものやというのが正しい方法やと思う。

もっとも、その結論として、押し紙に苦しめられ裁判も辞さずという答えを出したのなら、それはそれでええ。尊重したいと思う。

そういう方は、その道の第一人者である黒藪氏に相談されるのを勧めるが、匿名が希望で助言を受けたい言われるのなら、ワシらが相談に乗る。

トラブルの対処法というのは、それぞれの事案でいくらでもあるさかい、独りで悩むことはないとだけ言うとく。

また、例え裁判にせずとも、その解決の方法はいくらでもあると。

もちろん、すべて解決できるとまでは断言できんし、保証もせんがな。



参考ページ

注1.第172回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ある地方紙販売店の闘い Part1 その前夜
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage13-172.html

注2.第41回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■マイナーワーカー同盟座談会 その2 新聞の闇と戦う人々
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage19-41.html

注3.新聞販売黒書
http://www.geocities.jp/shinbunhanbai/

注4.第47回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画『社葬』による新聞への負のイメージについて 前編
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage19-47.html


追記 私の感想

投稿者 Jさん  投稿日時 2009.6.26 AM 9:17


今朝配信の、「第55回 週刊新潮の押し紙特集記事について」読みました。

さて、今、旬の話題になっている一つに、セブン○レブンの弁当廃棄損の問題があります。

公取から排除措置命令が下されましたが、本部とフランチャイズが、本当の意味で解決するためには、まだ時間が必要なようです。

私は、この問題と、新聞販売店と新聞本社との間に存在する押し紙問題が、いろいろな意味で、似ているなと思いました。

「無言の圧力」とか、「廃棄弁当は全額フランチャイズオーナー(販売店)の費用負担」などなど。

今朝の日経MJには、全国のオーナーに、かなり温度差があることがうかがわれました。

公取の判断が後ろ盾となって、見切り販売に積極的な人もいるかと思えば、「うちはもうかっているから、本部を刺激したくない」というオーナーもいるのが実状のようです。

新聞販売店とコンビニチェーンの違いとしては、新聞が定価販売(特殊指定)の商品であるという点であることと、消費者への影響が、直接的(コンビニ)か間接的(新聞)という点が挙げられます。

消費者への影響が大きい事案ほど、世間が注目します。

ハカセさんが、メルマガで次のことを言われたように、コンビニの弁当価格は多くの一般人に関係する”重大な”問題ですが、新聞のそれは、一般人にはあまり関係ありません。


> 業界関係者以外の一般の人から「押し紙はけしからん」とか「押し紙はなくして貰いたい」という意見や相談がほとんどない。
>
> 一般の人には、その争点が良く見えんというのが実状やろうと思う。単に、お 互いの利害を争っているだけのことやないのかと。
>
> 人は、我が身に降りかかる、あるいは関係することには敏感に反応するもんや が、対岸の火事には傍観者になるケースが多いさかいな。


私は、雑誌の新聞へのやっかみは、もしかしたら、特殊指定の有無も関係があるのではと考えています。

雑誌社(新聞社の系列以外の出版社)にとってみれば、新聞社の悪事を暴くことで、なんとか特殊指定の指定から外させて、自分たちと同じ境遇にしてやりたいという気持ちがあるのではないではないかと。


追記 押し紙について

投稿者 Mさん 奈良市在住  投稿日時 2009.6.27 AM 5:15


ゲンさん、ハカセさん、今日は。

押し紙ですが、思い当たる節があります。

通勤コースからちょっと曲がった所に、S紙の販売店があります。そして時々ですが、その近くに(株)なんとかと書いた4t車がビニールに入った、古びた感じではない新聞を積んだ状態で止まっているのを見掛ける事があります。

何でこんな通勤時間帯に卸すのか、不思議に思っていましたが、押し紙の回収と思えば符合する事は確かです。

もっと歩くとY紙・M紙の販売店もありますし。

想像にすぎませんが。


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