メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第67回 ゲンさんの新聞業界裏話

発行日  2009.9.18


■新聞とネットの共存共栄はあるか?


「ゲンさん、新聞もこのままなくなってしまうのやろうか」

拡張に行った先で、今年65歳になる、元地方紙の新聞記者をしていたユウイチローという初老の男にそう言われた。

「さあ、今すぐそんなことにはならんのと違いますか」と、ワシ。

現在、そのユウイチローは定年退職していて、年金暮らしで悠々自適の生活を送っているとは言うてるが、その実、仕事がしたくてもその仕事がなかなか見つからず、暇を持て余し気味とのことや。

これは根っからの仕事人間と呼ばれていた人間には辛い。趣味が仕事やったという笑えん悲劇がそこにある。

本人はまだまだ若いという気持ちだけは旺盛やが、実際に働き口を探すとなると、折からの求職難ということもあり、なかなか難しいのが現状やという。

本人の能力、意気込み以前に、その年齢で弾かれる。高齢者として扱われると嘆く。

高齢者の新聞購読率が高いのは、単に昔からの生活習慣の延長ということだけやなしに、行き場を失って暇やということも大きな要因の一つでもあるわけや。

ワシら拡張員からの勧誘対象になりやすいという点でな。

その暇つぶしの格好の話し相手になるということもあり、ワシら拡張員の訪問が嫌がられることは比較的少ない。

当然のように高齢者からの契約が多くなる。

新聞離れが深刻化しとる業界やが、事、高齢者からの契約ということだけに限って言えば、昨年あたりから本格的になった団塊世代の定年退職者の増加という事と相俟(あいま)って、たいていの販売店ではその部数は増えとると思う。

その彼らの存在は業界にとっては有り難い。

しかし、ネット上ではその高齢者の購読部数の割合が増加しとることについては、「年寄りを騙して契約させている」という批判になって表れとる。

少なくとも、そう信じている若い世代がいとるということや。

まったくの事実無根とまでは言わんが、その高齢者たちの希望もあるというのは分かって頂きたいと思う。

人は自分が中心の生き物やから、どうしても自分の感じた範囲の現状で物事を見てしまう。

それ自体は批判するつもりはない。仕方のないことやと考える。

しかし、その自らの価値観だけで、他者もそうやと決めつけるべきやない。

決めつけると必ず穿(うが)った見方になりやすいさかいな。

その影響のためか、その高齢者の子供たちからサイトのQ&Aにも「何とか無駄な新聞を止めさせることがてきませんか」という類の相談がたまに舞い込むことがある。

そんなとき、ワシは決まって「親御さんの気持ちを良く確かめてからにしてほしい」と言うてる。

人にとって、価値のある物というのはそれこそ千差万別、いろいろや。

新聞に関しても、それは言える。

読みもしない新聞を購読するのは無駄やと考えるのが当然やとする人がいる一方、それを購読する事、自体に意義や安らぎを見出す人もおるということや。

「無用の用」というのがある。

一見無駄で役に立たんと思われるものが、却って大きな役割を果たしとる場合があるという考え方や。

Q&A以外の実際の現場でも、「子供が無駄やと言うもんで、ゲンさんには悪いが次の契約は断るよ」と言われる高齢者の方が、時折おられる。

一般的な家庭では家計を切り詰めようとする場合、まず一番に考えられるのが新聞代や。

自立されとる高齢者は別にして、子供に世話になっている場合は、どうしても、そう言われると気兼ねから、それに応じてそう言うてしまうことがあると聞く。

しかし、そういう人たちから、ものの1、2ヶ月もすると、「ゲンさん、やはり新聞を配達してくれんか」と言うてくるケースが結構多い。

今まで数十年も、その新聞が毎朝届くのが当たり前で、それを読むのが日課になっている人にとっては、ある日、それが突然なくなると何とも言えん虚無感に襲われるのやと言う。

新聞がそこにあるだけで落ち着く。ないと不安感に陥る。

新聞の存在自体が、精神安定剤の役目を果たしているわけや。

それが、「無用の用」ということになる。

これは、若い人には理解できんと言われる人がおられるかも知れんが、それは「新聞」やから、そう思うので、他の物を例に挙げればすぐ分かって頂けるはずや。

例えば、携帯電話。これなんかは若い人には必需品やと思う。

しかし、その携帯電話がこれほど普及し始めたのは、せいぜい、ここ10年くらいの間や。

それまではなくて当たり前で、誰もそれほど困るというほどでもなかったと思う。特にワシらくらいから上の人間にとっては、なくても生きていくのには差し支えない。

ところが、今の多くの若者にとっては違う。

その携帯電話が手元にないというだけで落ち着かず、不安になる者の方が多い。

あれば、特に使ってなくても落ち着く。

それと同じ事やと考えて貰えばええわけや。

「新聞」も「携帯電話」も必要な人には必要やが、そうでもない人にとっては、ただの無駄な物にしか映らんのやと。

それと似たようなことはパソコンについても言える。

インターネットでいくらでもニュース情報は得られるというても、ものの十年ほど前からしか本格的に普及してないパソコンについていけない高齢者は多い。

いくら操作が昔と比べて簡単になったとはいえ、その扱い方の分からん者にとっては、とてつもなく面倒なものに感じるわけや。

当たり前やが、インターネットはそのバソコンを操作せな見ることができんからな。

その点、新聞は届けられた瞬間から読める。

何の道具も必要やない。強いて言えば、近視の者は眼鏡、老眼なら老眼鏡が別にいるくらいや。

読むのも、パソコンの前という限定した場所やなく、室内のどこでも読めるし、トイレの中に持ち込むこともできる。

縁側でのんびり読むのもええし、公園まで足を運んで読むのもええ。

新聞を読むための制約は、これといって何もない。

もっと言えば、突然の停電やパソコン本体の不具合、故障に対しても狼狽(うろた)える必要がないということや。

また、新聞社の方でも、その高齢者の読者への配慮から新聞紙面の文字を大きくして読みやすくしたというのもある。

「メガ文字」というのがそれや。

もっとも、それで、その高齢者たちが喜んでいるかというと、それほどでもないがな。

確かに、その当初こそ、その話題性が営業トークのネタにはなったけど、効果のほどはもう一つやった。

過去にも、1983年にそれまでの文字の26・5%、1989年には、さらにその18・5%拡大したということがあった。

そのいずれの時も、話題性があったのは、その当初だけや。

結果は、横ばい状態が続いただけで、そのことによって目立って部数が増えたという事実はない。

この新聞業界が飛躍的に部数を伸ばしたのは、1950年代から1980年代初頭にかけてや。

そのとき、終戦直後の昭和22年(1947年)時、約1400万部やった新聞の総部数が、昭和60年(1985年)には、現在の購読数にほぼ匹敵する5000万部に到達していた。

最初に、新聞社が文字の拡大に踏み切った1983年は、その伸びにかげりが見え始めた時期と妙に符号しとると思う。

そう考えれば、その後、3度の文字の拡大を行ったというのも納得できる。

何のことはない、その頃から、新聞社は部数減の特効薬にはそうするしかないと考えていたわけや。

安易と言えば、これほど安易なことはない。

加えて、その文字の拡大を「メガ文字」と呼称することで、流行に乗ろうとしたのが見てとれる。

まあ、昔から他業種に比べて新聞各社には独自の営業センスというものが、あまり感じられんかったが、これはまさしくそれを象徴しとるネーミングやと思う。

ただ、一方で、数は少ないが高齢者の中には、その文字が大きくなるのを喜ぶ人がおられるのも確かや。

ワシも実際に、そういう話を直に聞くことがあるさかいな。

それでも、新聞社の言う「老眼鏡がいらない」というほどやないとは思う。軽度の老眼の場合やと、そう言えるのかも知れんがな。

単に、今までよりは字が大きくなったという感覚にすぎん。それに慣れてくれば、結局はまた同じやと思うがな。

そして、今の新聞社のやり方やと、また数年後、同じように文字の拡大に走るのやないかという気がする。

ただ、字が大きくなることによって体にも脳にもいいという、今までになかった論法が、ある新聞記事に掲載されていたのには惹かれるものがあった。

その部分を抜粋する。


「メガ文字」がひらく新聞の新時代
http://www.yomiuri.co.jp/info/megamoji/index.htm より抜粋


大きな文字で脳活性化 疲れ目防止も
 
 大文字は目にやさしいだけでなく、体にも脳にもよいことがわかってきた。
 慶応大学医学部眼科の坪田一男教授は「文字が大きくなるにつれて疲れ目(眼精疲労)になりにくくなる」と語る。

 同教授によると、文字を読んだり、パソコンに向かったりした時の疲れ目の原因の74%は眼球の表面が乾燥するドライアイだ。小さい文字の場合、目を見開いて判読しようとするため、まばたきの回数が減少する。まばたきの減少で眼球表面が乾き、ドライアイになりやすくなるという。
 
 坪田教授は「加齢によってドライアイになりやすくなる。その意味でも大きい文字は目によい。部屋が暗くても同様なことが言えるので明るいところで文字を読む習慣を」と強調する。

 「大きい見やすい字は肩こり、疲れ目などの不定愁訴のほか、イライラ感を減らす効果がある」と指摘するのは、文字の大きさなどが心理的にどんな影響を及ぼすかを研究する産業技術総合研究所上席研究員の佐川賢さん。

 文字が大きくなると文字情報を正確に判断する割合は向上し、理解度や満足感も高まっていくと考えられる。
 
 大きな文字による刺激が脳を活性化するという報告もある。

 脳科学を教育、発達などに生かす研究を進める日立製作所フェローの小泉英明さんは、「ある老人ホームで文字も読めないと思われていた認知症のお年寄りに、字を大きくしたり、老眼鏡の度を調整したりして文章を読ませる学習療法をしたところ、症状が著しく改善した。よく見えるということがいかに脳の活性化に重要であるかがわかる」と語る。


これについては、それなりに説得力はありそうやから、営業トークには使える。

そう思うてた。

しかし、現実には、これもあまり効果がなかった。

新聞社がこれほど広報しとるのにも関わらず、この事はあまり世間に広まってないさかい無理もないがな。

せやから、営業トークで、それを言うても「へえー、そうなんや」という返事しか返って来んかったさかいな。

新聞が斜陽産業になりつつあるのは紛れもない事実やとは、ワシも思う。

しかし、まだ救いはある。

それは、新聞は再販制度に守られいるというのと、いくら購読者が減少傾向にあるとはいえ、今以て新聞購読率は悠に80パーセントを超えとるという事実があるからや。

もちろん、押し紙や積み紙という業界独特の余剰新聞の存在により公表ほどの新聞部数がないというのは承知の上で言うてることやで。

それを差し引いたとしても、少なくとも80パーセント台の新聞購読率は維持されとるはずやと。

もちろん、それにあぐらをかいていたんでは、先行きが怪しいというのは否定せんがな。

経営の行き詰まった新聞販売店や新聞拡張団の経営者の方々から、現実に廃業を考えている、または廃業するしかないとサイトに言うて来られるケースも多い。

加えて、新聞販売店の店舗数や従業員数も確実に減ってきとるという事実もあるしな。

新聞業界始まって以来の厳しい状況に変わりはない。

ただ、それやからと言うて、今すぐどうにかなるというほど軟弱な業界やないのも確かや。

また、そうなって貰っては困る。

この新聞が消滅して困るというのは、何も業界関係者のワシらだけやない。

実は、新聞不要論を主張しているネット愛好者自身が本当の意味で困ることになると思うんや。

彼らはそれと気づいてないかも知れんがな。

それには、インターネット上の情報の多くが新聞社から発信されたものが多いという点にある。

ネットに限らず、テレビやラジオ、雑誌などのマスメディアの多くがその情報で成り立っていると言えるほどにな。

特に新聞批判を繰り返しとる者ほど、新聞、もしくはそれから発信される情報を良く読んでいるのが実状やと思う。

当たり前やが、新聞批判をしようと思えば、そこに書かれていることを良く読み込む必要がある。

アンチもファンやとは良く言われるが、そのとおりやということや。

その彼らにとって批判すべき新聞が実は貴重な情報源でもあるという皮肉な結果になっとるわけや。

その新聞がなくなるとどうなるか。

その彼らにとって攻撃すべき対象を失うことになる。

彼らの多くは、新聞の誤報やねつ造記事を批判する。

しかし、それは取りも直さず、新聞が世間から信頼されているということを認めているからに外ならんわけや。

本当に彼らが言うように新聞が世間から信頼されてなければ、そこまで批判せずとも放っておけば勝手に消滅するわけやさかいな。

少なくとも、やっきになって攻撃する意味がないと思う。

誘導しているという批判も根は同じやと考える。

「財団法人新聞通信調査会」(注1.巻末参考ページ参照)というのがある。新聞やメディアの世論調査をしとる機関や。

去年の2008年12月にその世論調査の結果が発表されている。

それによると、「新聞を週に1日以上読んでいる人」というのが84.5パーセントで、その内、「毎日またはほぼ毎日」が66.9パーセントいとるという。

これは、正直、ワシの想像以上の結果やった。

ワシは購読しとる者でも、それほど読んでないやろうという印象しか持ってなかったさかいな。

もっとも、その読む箇所で最も多かったのが「ラ・テ欄(ラジオ・テレビ欄)」の71.4パーセントということやったから、まあ納得はしたがな。

余談やが、大正13年(1924年)にY紙が初めて新聞に「ラジオ欄」を掲載したという、当時としては画期的な出来事があった。

その当時は、新聞社にとってラジオ放送というのは、ニュース報道をするライバルでもあったわけや。

その際、「ライバルのラジオを助けるようなことをしてどうすんねん」という批判があったというが、結果、この試みが当たって一躍その部数を伸ばすことに成功した。

その当時、そのY紙は僅か5万部ほどの弱小新聞社やったのが、今や日本一、世界トップクラスの新聞社に成長するまでになった。

ほどなく、他紙もそれに追随して現在のような「ラ・テ欄(ラジオ・テレビ欄)」のある紙面になったわけや。

そう考えれば、今もその「ラ・テ欄(ラジオ・テレビ欄)」への購読が一番多いというのも分かるような気がする。

その頃から、延々とその慣習が受け継がれとるからやと。

話を戻す。

新聞を読む理由として「習慣になっているから」というのが最も多くて65.3パーセントやったという。

これは、ワシがいつも言うてる事と符号する。

次が「自分が好きなときに読めるから」というのが48.5パーセント。これも、先にワシが言うてる事と合致する。

「生活をする上で役立つ情報が多いから」が、40.7パーセント。「新聞はいろいろな情報が網羅されている」36.4パーセント。「新聞で今日の出来事すべてがわかる」の26.5パーセントと続く。

逆に「新聞を週に1日未満しか読まない人」は14.5パーセントしかないという。

その内訳として「テレビを中心として他の情報で十分だから」が、57.8パーセント。「インターネットの情報で十分だから」の40.1パーセントになっている。

そのうち、「新聞を取ってないから」が38.6パーセントいとる。これが、俗にいう「無読」と呼ばれとる人たちや。

単純計算やが、「新聞を読まない」14パーセント×「新聞を取ってないから」38.6パーセント=5.4パーセントとなり、これが日本全体の無読者の比率と推測される。

これが多いか少ないかは、それぞれの判断になるが、数字を見る限り、現状では完全に新聞離れになっているというほどやないということになる。

アンチ新聞派にとっては異論のある数字かも知れんがな。

ただ、先にも言うたが、アンチ新聞派が必ずしも無読とは限らんということを考えれば、その数字も頷けんでもない。

新聞を攻撃するためには、その資料としての新聞が必要になり、購読しとるということでな。

ネットの掲示板でさして調べもせず書き込むだけの人間はどうかは知らんが、少なくとも理論派と呼ばれとる人たちはそうしとるはずやと思う。

もし、その攻撃する材料も資料も持たず、ただ批判しとるだけやとしたら恐れるに足らずやけど、それは考えにくいわな。

ちなみに、自宅で最も利用するのがテレビの89.3パーセントで、次が新聞の64.1パーセント。パソコンでのインターネットは27.1パーセントやという。

ただ、インターネットは携帯電話でもできるから、その9.8パーセントをパソコンのそれに加えると、36.9パーセントという数字になる。

正直、これは意外な結果やった。もう少し、インターネット利用者の比率が多いと思うてたさかいな。

ただ、そのパソコンや携帯電話でのネット利用者には若者が多く、その彼らを中心に新聞離れが進行しとるのは事実やから、このままの状況が推移すれば、いずれその彼らの行動が主流になり、新聞は駆逐されるという予測は容易に成り立つ。

果たして、そうやろうか。

ワシは一概にそうとは言い切れんのやないかと思う。

それは、インターネットにも大きな問題を孕(はら)んでいて、それが少しずつ解明されつつあるからや。

インターネットの歴史は浅い。

そのために穴が気づかれにくかっただけやないのかという考えがどうしてもワシには捨て切れん。

インターネットやコンピュータはあまりにも急激に伸びすぎた。

そのため、インターネットを扱う、あるいは利用する人間のモラルや意識が、その伸びに追いついてないのが実状やと思う。

便利なものには危険が潜む。

例えば、自動車という便利なものが生まれたがために、毎年、膨大な数の人が交通事故で命を落としているという現実がある。

ちなみに、日本では毎年、1万人近くの人たちが交通事故で亡くなっているという。

自動車に限らず、飛行機、電車、果ては自転車ですら、その危険はつきまとう。

また、料理するのになくてはならん便利な包丁も、時として凶器となる。それを使っての凶悪事件も最近、特に目立つさかいな。

他にも挙げればキリがないくらい、その手の危険が存在する。

人間の発明した文明の利器で絶対安全と呼べるものの方が少ないのが現実やろうと思う。

それを扱う人間次第で、便利な道具にもなり危険な道具にもなるということや。

インターネットも例外やない。

むしろ、それらのどれより、大きな危険を孕(はら)んどるのやないかとさえ思える。

インターネットが登場して間もなく、ハッカーという連中が現れた。

彼らは、他のコンピューターから情報を奪う以外にも、コンピーターウィルスというプログラムを他人のコンピーターに送り込み破壊を楽しむのやという。

そのため、インターネットをしている多くの人が、それに対抗するウィルスソフトで防御している。

ただ、それだけでは完全に彼らからの攻撃を防げる保障はないようやがな。

攻撃する側がウィルスを送り込めば、それに対応するウィルスソフトを作る。

さらにそれを破るウィルスをハッカーが開発すれば、それようのウィルスソフトを……という具合に際限のないイタチごっこが延々と続いとるのが実状や。

それに終わりはない。

しかも、運悪くその手のウィルスにやられたとしてもそれと気づく人すら少ない。

「何や、このパソコン、最近調子悪いな」という程度にしか一般の人は考えんケースが多いというさかいな。

個人情報を盗み取られるということになると、さらにそれと気がつく人は少ないやろうと思う。

ネットの世界に個人情報が流失するというケースは、それこそいくらでもある。

個人のパソコンが狙われるということもあるし、企業が標的になるということもある。

そして、その情報が出回り、大量の詐欺まがいのいかがわしい迷惑メールが送りつけられたり、ある日、突然、大手掲示板サイトなどにその情報が晒されることもあるという。

危険と言えば、その掲示板サイトへの書き込みというのも、そうや。

当初、ワシは掲示板サイトというのは、人を誹謗中傷するためのものやと思うてた。

人を悪し様にこき下ろすことを楽しんでいる異常な人間たちの集まりやと。

そこまで言うかというものがあまりにも多く目立つさかい、どうしてもそんな目で見てしまう。

言葉使いだけやなく、考えそのものに品位のカケラもないと思えるものがあまりにも多すぎる。

特に、拡張員をこき下ろすことにかけては凄まじいものがある。

確かに、誹謗中傷されても仕方ない拡張員の存在は認める。

しかし、ワシから言わせて貰えれば、その誹謗中傷しかできん人間と、タチの悪い拡張員との悪質さは五十歩百歩やと思うで。

目くそが鼻くそを笑うてるようなもんや。

それに気づかず、延々と誹謗中傷を繰り返している。

そういうことを繰り返す人間は、自身の心すら壊しかねん、いや、すでに壊れとるのかも知れん。

せやからこそ、そんな愚挙に走れるのやという気がする。

心の壊れた人間は暴走しやすい。

その暴走が、殺人予告などというとんでもない書き込みにつながり、挙げ句に逮捕されるという愚を犯しとるのやないかと思う。

ワシもハカセも、人を誹謗中傷するのは嫌いや。

また、それができるほど自分自身に自惚(うぬぼ)れてもおらん。

その思いが一致して、サイトやメルマガでは、個人名や企業名などを挙げて誹謗中傷するような愚は止めようと誓うとる。

但し、例外として批判的な内容にならん場合に限り、公人、芸能人などは実名を挙げる場合もある。

特に有名人の場合は、その方が分かりやすいさかいな。

あるいは、その人の希望や許可を得て、そうする場合もある。

それ以外では、企業名、個人名の公表は一切せん方針や。してもイニシャル表示までに止める。

そんなわけで、掲示板にはロクでもない書き込みをする人間が多いという先入観から、見る機会も少なかった。

それが、例の『第8回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■MDN醜聞の波紋』(注2.巻末参考ページ参照)を話す際に調べたことで、その認識がかなり変わった。

この事件は、そのインターネットの掲示板から問題が発覚したということもあり、あちこちのネット上で活発な意見が書き込まれ展開されていた。

相変わらず、もうちょっと、ましな書き方はないのんかというのもあるが、それ以上に、正論で、もっともやと思えるものも多かった。

そこには、普通の感覚の持ち主やと思える書き込みが大半を占めていた。

当たり前やが、正論を支持する人が一番多いのが世の中やと思う。

何か事があれば、その人たちが声を上げるのは、むしろ自然なことでもある。

人を誹謗中傷することだけしかできん者が、掲示板サイトに訪れ書き込みをするわけやなかったとそのとき初めて気づいた。

ワシらもいつの間にか、一般の人が拡張員を見るのと同じように、その掲示板サイトを色眼鏡で見ていたということになる。

ワシらは子供の頃から、人の悪口を言う人間にロクな者はおらんという常識や教えの中で育ってきた。

もちろん、それ自体は間違った考え方やないと思う。

掲示板サイトで他人を誹謗中傷する者は、自身の匿名性が確保できていると考えるからそうするのやと思うが、それは大きな間違いやと言うとく。

それについても、『第8回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■MDN醜聞の波紋』(注2.巻末参考ページ参照)の中で言うてる。

その部分や。


本当の意味での匿名性というのは、ネットの世界ではすでにないと知るべきや。

掲示板で凶悪犯罪を臭わせるような書き込みがあれば、比較的簡単に分かり逮捕されとるという実態がある。

パソコンには、特有のIPアドレスというのがあり、個人にたどり着くのはそれほど難しいことやない。

例え、ネットカフェのような所から発信されたものでも、その日時、機種まで分かるから、そのときその端末を使用してた者の特定も比較的簡単にできるという。

また、インターネットでは、多くの人が検索サイトというのを利用しとると思うが、それからでも簡単に足がつく。

例えば、Googleではユーザーの IP と検索した時間、検索した言葉や語句、そこからリストされた結果、およびそのクリックスルーの全てを自動的に記録して保管しとるのやという。

因みに、クリックスルーとは、リンクをクリックすることによってリンク先のページにジャンプすることをいう。またはその回数のことを指す。

しかも、その保管期間は無期限ということらしい。

つまり、ユーザーがGoogleで検索した文字や内容は半永久的に残るということになる。Yahooにも似たようなことが言える。

分かりやすく言えば、検索サイトによってユーザーの行動がすべて監視されとるということや。

結果、どういうことになるか。

昨年、アメリカ在住のある読者の方から、実に興味深い事件の情報が送られてきた。

その概要を話す。

ある女性が銃で胸を打たれて死んだ。

容疑者として夫の可能性が考えられたが、証拠が何もない。

迷宮入りかと思われた犯罪やったが、思わぬ所からその夫が逮捕される事にな
った。

その殺人事件が起こる前の2ヶ月間、この夫は Google を使い「他殺の場合に保険金はおりるのか」というキーワードで検索をしていたことが、その記録から分かった。

これが証拠として採用され、この夫は殺人罪で終身刑の判決を受けた。

実際にアメリカで起こった事件や。

日本でも、現在はネット犯罪に相当力を入れとるという話やから、いずれ、これと同じことが起きる可能性は高い。

ネット犯罪に手を染めるような連中の多くは、その事実をまだ知らんようやがな。

もうすでに、インターネットには完全な匿名性は存在せんということや。

その匿名性やプライバシーが保護されるのは、犯罪に手を染めることのない善良な一般ユーザーだけやと言うてもええと思う。

ネットに関連した犯罪は、その証拠が確実に残るから言い逃れすることすらできんようになる。

知らんうちに行動がすべて監視され記録を取られとるというのは、ある意味、怖いことやし気持ちの悪いことやと思わんでもない。

しかし、別の見方をすれば、そうすることでインターネットの健全化につながるのやないかとも考えられる。

要するに、犯罪に関わるような書き込みに手を染めさえしてへんかったら何の心配もないわけや。

いくらその掲示板で、どんな過激な発言をしようが、誹謗中傷をしようが、それから引き起こされる結果やトラブルが自分に及ぶはずはないと考えとる者には未来のない話やけどな。

子供は大人を見て育つ。子供の世界は大人の世界をそのまま鏡に写していると言うてもええ。

大人の世界で、そんな誹謗中傷がまかり通っている掲示板サイトがあるからこそ、子供にも「学校裏サイト」というものが流行り、そこで陰湿ないじめの書き込みが行われるわけや。

そういうものはなくしていかなあかんと思う。

ただ、自由な発言というのはワシも尊重するがな。

しかし、そうするには人に対する最低限の思いやりや礼節をなくしたらあかんと思う。

それをなくしたら人間として終いや。


と言うてた。

新聞に欠点があるのは認めるが、インターネットにも欠点は多い。

現時点では、多くの人がその両者の両立はあり得ないと考えとるようやが、果たして本当にそうなのやろうかと思う。

新聞は過去、ラジオやテレビという強力なメディアの登場で、その存在を危(あや)ぶまれたことが何度もあった。

しかし、結果として、その両方が繁栄の道を辿った。

ネットオンリーという人も、実際には新聞社が収集する膨大な情報を必要としとる。

そこに共存のキーワードが隠されているように思う。

ただ、85年前、新聞に「ラジオ欄」を載せたというY紙の経営者並の英断できる人物が現れんと、それも難しいのかなという気はするがな。

ネットと新聞の共存共栄。

それが夢と終わるのか、現実のものとなるのか、まだその結果は出てない。

すべては、これからにかかっていると思う。



参考ページ

注1.財団法人新聞通信調査会

注2.第8回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■MDN醜聞の波紋


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