メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第80回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2009.12.18
■誰にでも訪れるクリスマス・イヴの小さな奇跡の話
救いたくても救うことのできなかった命。
チヨはそのことで心を砕き、自身を責めていた。
どうにもならなかったのか……。
身内として、姉として、してやれることはなかったのか……。
何度もそう自問自答を繰り返してはみたが、その答えはどこからも得られなかった。
そのチヨのもとに、去年の2008年12月24日、クリスマス・イブの日に弟のマサジローが死体となって発見されたと警察から連絡があった。
場所は大阪市内の小さな公園の片隅やった。
マサジローはそこで1ヶ月ほどホームレスのような暮らしをしていたという。
その頃、派遣社員や期間従業員のリストラが連日、大々的に報じられていて、住む場所を追い出されて行き場を失った人たちが、大都市を中心とした公園などでホームレス状態になって集まっていた時期やった。
それもあり、マサジローの死は、「すわっ!! その犠牲者、第1号ではないか」と一瞬、騒ぎ立てられかけたと聞くが、すぐにそれとは関係ないと分かって大した騒ぎにはならんかったという。
良くある行き倒れとして処理された。
マサジローは享年41歳で没したわけやが、その生涯の中で仕事をしていたという時期は、すべて合わせても1年間にも満たなかったという。
俗に言う、ニートと呼ばれる生き方をしていた男やった。
当然のように、その際にも無職やったさかい、外見的には単なる行き場を失ったホームレスにすぎんかったわけや。
マサジローは誰に看取(みと)られるでもなく静かに逝った。
しかし、その裏にはとんでもないからくりが潜んでいた。
ワシが、その事実を知ったのは、先月の11月のある日、ハルさんの命日に墓参りに行った際、そこでたまたま娘さんのチヨさんと出会ったからやった。
ハルさんというのは、旧メルマガの『第67回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■生きるために』(注1.巻末参考ページ参照)でも話したことがあるが、ワシにとっても特別な顧客やった人や。
ハルさんはアパートや借家を経営してた、やり手のおばちゃんというタイプの人やった。
このハルさんは、お世辞にも性格のええ人間とは、とても言い難い。
評判がすこぶる悪い。
ごうつく(強欲)婆さんと陰口を叩かれて、その近所では有名な存在やった。
ワシがあるとき、このハルさんに「顧客を紹介してくれたら、紹介料を払いますよ」と言うて具体的な金額も提示したら、短期間のうちに数十人もの客を集めたことがあった。
それは、紹介というより、勧誘そのものやった。その強引さは、並の拡張員では足下にも及ばんやろうと思う。
客のほとんどが、ハルさんの経営するアパートや借家の住人たちやった。
従来からの入居者には、
「あんた、新聞どこ取ってるの?どこも取ってないんやったら、○○新聞読んどき。新聞屋に言うといてあげるから」
「あんた、△△新聞読んでるの? あかん、あかん。あんな新聞読むんやったら、○○新聞にしとき」
と、言葉以上に有無を言わさん調子で強引に口説(くど)き落とす。
新規入居者には「うちに入居して貰う人は、○○新聞を取って貰うてるんよ。サービスもええし、頼むわよ」と、さも、それが決まり事のように言う。
ワシらのように、ただ新聞の勧誘に来たという人間に対しては、断わろうと思えば簡単や。
しかし、こういう大家の言うことなら、仕方ないかとたいていは思う。変に揉めるのもどうかと考えるさかいな。
どうせ、どこかで新聞を取ろうと思うてた人間なら尚更や。
従来からの住人は、このハルさんの性格を良う知っとるから、ヘタな断り方をすると、居づらくなると承知している。
実際、このハルさんの逆鱗に触れて、そのアパートや借家から追い出された人間は数知れずいとるということや。
このハルさんには、法律はあまり意味がなかった。
あるとき、無法な立ち退きを要求されたということで民事訴訟を起こした住居人がいた。
普通は、その裁判の判決なり、調停での決着を待つもんやが、ハルさんにはそれは通用せん。
「ここは、わたいの家や。さっさと出ていけ、出て行け!!」と四六時中、調停中にも関わらず、その住居に押しかけて喚き散らした。
相手の弁護士から文句を言われようが、裁判所の調停員から注意をされようが、まったく意に介することはない。
たいていの人間は、揉め事というのは嫌がるもんやが、このハルさんにとっては、それが生き甲斐ではないのかとさえ思えるほど、異常なまでの執念と闘志を燃やす。
せやから、その裁判沙汰にまで持ち込んだ人たちも、最後にはギブアップしてあきらめることが多かった。
わけの分からん人間に法律で対抗したのが間違いやったと。
これだけを聞くと、何とえげつないおばちゃんやな思われるかも知れんが、住居人にとってはメリットになる場合もある。
それは、ハルさんが管理しとるアパートや借家での、しつこい新聞勧誘がまったくと言うてええほどなくなったからや。
何も知らずに間違って購読紙の○○新聞以外の勧誘員がやって来たと分かったら大変や。
すぐさま、その販売店にねじ込む。
たいていの販売店も、そのハルさんのことを知っとるから、謝まらなしゃあないとなる。
本当は、新聞の勧誘に行ったくらいで謝る必要なんかはない。当然の営業行為や。せやけど、そんなことを言うても分かる相手やないというのがある。
揉めて得する相手やない。
当然のように、その近所の新聞販売店からは、ハルさんの所有するアパートや借家は拡禁(拡張禁止)扱いになった。
そんなハルさんから、なぜかワシは気に入られていた。
このハルさんは、敵対する人間にはえげつないほどの闘志を見せるが、気に入った人間には徹底して世話をやくというタイプの人やった。
ワシにとって、ハルさんは愛すべき人やった。これは、何も勧誘客を数多く斡旋してくれたからと言うのと違う。
正直、ワシは、今まで、年配のおばちゃんに親身にして貰うたということがなかった。
ワシの母親は、ワシが生まれてすぐに死んだ。
せやから、ワシは母親というものを知らん。もし、母親が生きていたら、こんな感じやったのかと考えたこともあった。
そのハルさんが、あっけなく死んだ。憎まれっ子、世に憚(はばか)ると言うが、あれは嘘や。
人は死ぬときには死ぬ。ええ人間も悪い人間もない。そんな当たり前のことが、現実として思い知らされた。
その前年、2007年11月の三回忌の法事に、その娘さんのチヨさんから「ぜひ出席してほしい」という連絡を貰った。
「ワシのような者でもいいんですか?」と、ワシは遠慮がちに聞いた。
葬式に参列するのは誰からも咎められることはないやろうけど、亡くなって満2年目に行う三回忌というのは、その遺族や親戚をはじめ、知人や友人などでもごく親しい人間だけが集まって故人の冥福を祈るものと相場が決まっている。
ワシは自分の仕事を卑下するわけやないけど、故人のハルさんとは単に新聞の顧客としてのつながりしかなく、世間からは胡散臭く見られがちな拡張員や。
そんな人間が出席するのは迷惑やないかと、そう言うて辞退を申し出た。
「そんなことを仰らずに母が喜ぶと思いますので、ぜひお願いします」と言われ、それならと出席した。
出席して驚いた。
ハルさんの親戚縁者はその地域では名家、資産家一族として知られていた。
ハルさん自身もアパートや借家を数軒保有していた資産家やから、さぞかし盛大な三回忌やろうと想像して行った。
そう思うてたからこその出席辞退やったわけやさかいな。
誘ってくれた娘さんのチヨさんに恥をかかせたくないと。
ところが行ってみると、ほんの10人程度が集まっただけのひっそりとしたものやった。
聞けば、親戚縁者は誰も出席することもなく、子供ですらチヨさん1人だけやった。
後、マサカズ、マサジローという2人の弟がいとるはずやが、なぜか三回忌という親族として重要な法事にも関わらず来てないという。
「ゲンさんは変に思われたでしょうね」と、ワシの心中を察したのか、その法事が終わった後、チヨさんがそう話しかけてきた。
「母が死んでから、いろいろありました……」と、ワシに言うてるつもりやろうが、その目はどこか遠くを見つめているようやった。
ハルさんは、その性格の激しさから、親戚縁者の中でも浮いた存在やった。
ハル子さん自身の親兄弟とは、かなり昔から絶縁状態が続いていたという。
さらに、ハルさんが亡くなる8年前の1997年の夏、ご主人のアキマサ氏が、炎天下での脱水症で亡くなったということがあり、その原因を作ったのはハルさんにあるとしたアキマサ氏側の親族と対立することになった。
ハルさんは、俗に言われる「カカァ天下」の象徴のような人で反対にアキマサ氏は従順で大人しい性質の人やった。
その前日の夜、酒好きのアキマサ氏が酔って帰るとハルさんは怒って、そのアキマサ氏を閉め出した。
そういったことは過去にも幾度となくあったという。
アキマサ氏は仕方なく、近所の公園で一夜を明かした。
酒に酔っていたためか、日中になっても寝覚めることがなくアキマサ氏は眠ったままやった。
近所の知人がその公園を通りかかった際、その異変に気づき救急に連絡したが、時すでに遅く、脱水状態が進行していた。
結局、脱水症により大腸が黒く壊死した状態になっていて助からなかった。
医師からその患部を見せられた記憶がチヨさんには今も生々しく残っているという。
それでハルさんを責めたアキマサ氏側の親兄弟、親戚縁者とも激しく揉めて絶縁状態になった。
ハルさん一家は完全に孤立していた。
さらに、そのアキマサ氏の遺産相続に絡み、チヨさん夫婦とも揉めることになる。
ハルさん曰く、「チヨは結婚して外に嫁いだんやさかい、うちの財産は一切やらん」と言う。
もちろん、そんなことは民法上許されることはない。すべての子供に平等の相続権があるさかいな。
法定相続分どおりの遺産を寄越せとは言わんが、何もないのはおかしいと言うチヨさん夫婦の主張は聞き入れて貰えず、やむなく裁判所に調停を委ねた。
しかし、ハルさんにそんな調停などは意味をなさず、毎日のようにチヨさん夫婦の家にやってきては「財産どろぼう!!」などと大声で喚き散らす日々が続いたという。
当然、チヨさん夫婦の弁護士は相手方の弁護士に苦情を言うが、一向にラチがあかない。
弁護士も呆れて「あんな人は初めてや」と半ば、さじを投げかけた。「精神異常者相手に裁判しているようなもんや」と。
結局、チヨさんのご主人、シンゴ氏はチヨさんに「財産放棄しろ」と言ってあきらめた。
そのまま頑張れば、少なく見積もっても数千万円から1億円程度の遺産分割が貰えるはずやからと弁護士は言うが、チヨさん夫婦にとってはそれよりも家族の安全の方を優先した。
事態はそこまで逼迫して追い詰められていた。このまま行けば、殺(や)るか、殺(や)られるかしか選択の道はないというほどに。
あるとき、ハルさんと長男のマサカズが一緒にチヨさん夫婦の家に来た際、大喧嘩になったことがあった。
長男のマサカズがシンゴ氏に襲いかかって取っ組み合いが始まった。
その場は、近所の人の通報により警察官が駆けつけたことで、小競り合い程度で終わり、双方に大したケガもなく事なきを得たという。
そのとき、シンゴ氏は「このままやと、俺たちか、お義母さんたちのどちらかが殺し合うしか解決の道はないで。もう相続放棄してあきらめよう」とチヨさんにそう諭した。
身内と命を賭けた争いをしてもプラスになることは何もない。例え勝ってもヘタをすると刑務所行きやし、負ければ命をなくすかも知れん。
そうはならんでも、自分の親兄弟とも平気で争うハルさんのことやから、このことで生涯に渡って恨みに思われ、つけ狙われる危惧は大いにある。
いずれにしても、ロクな結果、結末にはならん。
そう判断したという。
その後、チヨさん夫婦は当時住んでいた家を売り払って、逃げるように他所(よそ)の土地へ引っ越して行った。
その後、音信を絶った。それはハルさんとの絶縁を意味していた。
そして、8年の時が流れた今から4年前の2005年11月のある日、そのハルさんが、突然の心筋梗塞で死んだという知らせが届いた。
それを知らせてきたのは、チヨさんの小学校の頃からの同級生でもあるアキコさんという女性やった。
不動産会社の女社長で、ハルさんが信頼していた中の数少ない人やった。
当時、ハルさん所有の賃貸物件の管理をすべて任されていたという。
もともと、アキコさん一家はその昔、ハルさん所有の借家に住んでいたという関係から家族ぐるみの付き合いをしていた。
それがその時まで、実に40年以上の長きに渡って続いていたことになる。
先にも話したように、ハルさんには敵は多いが、これはと気に入った人間に対しては、とことん信頼するという性質がある。
アキコさんも、その期待に添うよう懸命に頑張っていたという。
そこには仕事を超えた思いがあったと、後にそのアキコさん本人の口から聞いたことがある。
人は信頼されるというのは嬉しいし、やり甲斐もあるもんやさかい、その気持ちは良く分かる。
その葬式の後、また遺産相続の話になった。
今度は、ハルさんはいてないから前回のような揉め事にはならんかった。
チヨさんのご主人シンゴ氏と喧嘩をした弟のマサカズも、ハルさんがいないと借りてきた猫のように大人しいからよけいやった。
今回、その場を仕切ったのが、そのアキコさんやった。
「おばちゃんから、後はお願いと言われているから」と。
結論から先に言うと、今回もチヨさんが相続放棄をすることになった。
しかし、その理由は前回とは大きく違っていた。
ハルさんのご主人でチヨさんのお父さんでもあるアキマサ氏が亡くなられたとき、資産家であったが故に相当の相続税を支払っていて、現金での遺産は知れた額しか残っていなかった。
二人の弟のマサカズ、マサジローは、当時、それぞれ41歳、38歳と働き盛りではあったが、共に独身で無職やった。
ハルさん一家の生計を維持していたのは、そのアパート、借家での家賃収入やった。
チヨさんが正当な財産分与を要求すれば、相続税との絡みでアパートや借家を売るしか道はないとアキコさんが説明する。
それでは、二人の弟の生活が立ち行かんようになると。
不動産を処分すれば、一時的には億単位の遺産が入るからやっていけそうにも思えるが、彼らにそれを計画的に使って生きのびろというのは酷な話やった。
兄のマサカズは単に思慮の足らん遊び人という感じの男やったが、弟のマサジローの方は、子供の頃から特殊学級に編入されていて、家族の中でも「知的障害者」として過保護に育てられていた。
ワシも実際にマサジローと会って話したこともあるが、そう聞かされれば納得できるものがあった。
雰囲気としては、比べてええのかどうかは分からんが、故芦屋雁之助氏が演じて有名になった「裸の大将」の山下清風な感じのする男やった。
38歳と言えば立派な大人やが、その心はええ意味で言えば純粋無垢な子供のような人間やった。
実際にも、悪気を持って何かをするという人間ではない。
ただ、誤解はされる。
あるとき、マサジローは小学生3年生の女の子の後をつけて、変質者として警察に通報され、逮捕されるということがあった。
本人曰く、「その子が可愛いからミッフィーをあげようと思って」と考え、後をつけていたのやという。
その手にはミッフィーと呼ばれる縫いぐるみの人形が握られていた。
オランダのデザイナー、ディック・ブルーナが描いた絵本に主人公として登場するナインチェ・プラウスというのがある。
ウサギの女の子のキャラクターで、これを日本では「ミッフィー」、または「うさこちゃん」と呼ばれていて、子供たちの間で根強い人気がある。
マサジローには俗に言われるような「性的ないたずら目的」など微塵もなかったやろうと、ワシも断言できる。
ただ、その頃は幼い女の子への残虐な事件が多発していた時期やったから、それと間違われ通報されても仕方なかったがな。
家族の説明と本人を見た担当の警察官もそれと理解したようで、そのときは大したお咎めもなく、すぐに釈放された。
マサジローは、過去に幾度か仕事に就いたこともあるが、いずれも長続きせず辞めている。
聞けば、どこの職場でも壮絶な「いじめ」に遭っていたという。
「私が彼らをサポートするから」というアキコの言葉を信じ、そのアパートや借家を売らなくても済む方法を模索した結果、チヨさんの相続放棄という結論に達したわけや。
チヨさんにはその未練よりも「私たちが遺産を無理に貰ったら、お母さんが化けて出てくるかも知れない」と本気で恐れていたほどやから、それで良かったと言う。
ご主人のシンゴ氏も「それでええやないか」と、同意した。
アキコさんも「彼らは、おそらく結婚もできないから、その物件を残しておけば、将来的にはあなた方のお子さんがそれを相続することになるから」と言う。
もっとも、そんなものは何の約束にもならんことやとチヨさんも承知していたが、その相続放棄をする条件、理由としてそう言われれば、アキコさんへの信頼度から任せるのが最上やと考えた。
結局、相続税対策として、長男のマサカズを不動産関係の名義人に統一し、覚え書きでは両者が対等の権利を有すると書き添え、その権利書と一緒にマサジローの銀行の貸金庫に保管することに決めた。
しかし、サーポートするはずのアキコさんに大きな誤算が生じることになった。
その原因を作ったのはマサカズやった。
アキコさんが、サポートするとは言うても、表向きは物件の管理のみを委託された不動産業者にしかすぎんから、直接、財産そのものを管理することはできん。
また、そこまでするつもりもアキコさんにはなかった。
それには、ハルさんが存命中にその仕事ぶりを良く見ていたはずやから、いくら少し思慮が足らんマサカズやと言うても、ある程度は任せておけると考えたということがあった。
読み書きができんということでもなく、普通高校を卒業し、運転免許証も取得できる程度の頭脳はあるわけやからと。
しかし、そのマサカズの姿は、あくまでもハルさんと一緒に暮らしていたときのものでしかなかった。
言えば、ハルさんという強烈な支配者に抑圧された虚像しか見てなかったわけや。
実際のマサカズは虚言癖のある浪費家やった。
そのハルさんというタガがなくなったマサカズは、そこそこの金が自由になると、すぐに博打に嵌り、酒と女に狂った。
それが分かったのは、アキコの元に借家の入居者からの銀行振り込みによる家賃の滞納が続いたことでやった。
妙に思ったアキコさんが、その借家人たちに連絡すると、「今月から手集金にするからと言ってマサカズさんが来ましたので家賃は渡しましたよ」と言う。
その借家人たちも、マサカズとは付き合いが古いから、そう言われるとさして疑いも持たなんだという。
それに、大家本人が集金に来ているわけやから、まさか後になって払ってないとも言わんやろうという安心感もあったと。
ハルさんから後を託されたアキコさんにとって、それは許し難く我慢できんことやった。
このままでは、賃貸物件の経営も何もあったもんやないという危機感を抱いた。
財産など、あっという間に食い尽くされると。
実際、このマサカズのように親に抑圧された子供が、その暗愚故に財産を短期間のうちに失ったという例は、ワシも腐るほど見て知っている。
そんなことになっては、ハルさんの期待に背くことになる。
アキコさんとしては、それだけは絶対阻止したかった。
マサカズとはそれこそ小さな頃から一緒に育った本当の姉弟のように思っていたから、ついその口調も荒くなった。
アキコさんはマサカズを徹底的に教育することにした。
大人しく説いて分かる相手やないから、自身をハルさんと同じように怖い存在として接した。
アキコさんも伊達に不動産屋の女社長をしているわけやない。
不動産屋を長くしていれば、ヤクザは疎か、箸にも棒にもかからんゴロツキのような連中を相手にすることも多い。
そんな人間を相手にしても一歩も引けを取らんという自負があった。
ワシも二、三度面識があるが、やり手で芯の強いの女社長という印象の強い人やったと記憶しとる。
並の男の太刀打ちできる人やないと。
ハルさんが信頼しただけのことはある。そう感じられる人やった。
アキコさんは、その日を境に彼らから自由を奪った。
特に、マサカズは常に側に置き、仕事の厳しさを徹底的に教えた。
マサカズも改心したように、それに従った。
しかし、それは上辺だけの見せかけやった。
あるとき、マサカズは弟のマサジローを連れて逃げた。
正確には、マサカズにはすでに手持ちの金がなくなっていたから、目当てはマサジローの金で、それがほしさに一緒に逃げたということや。
その金だけを盗って逃げるのは、いかにも拙いと考えて。
言葉巧みに「このままやとアキコさんに、俺たちの財産を奪われる」と言い、マサジローにそう思い込ませた。
後に分かったことやが、マサカズが遊び歩いていたときに知りあったハットリという男が、そうしろと裏から唆(そそのか)して糸を引いていたのやという。
そのハットリが兄弟を操っていた。
また、マサカズは、アキコさんやチヨさん夫婦のことを、自分たちの財産を狙う大悪党やと吹聴していたというから、そのハットリという男も義憤を感じて力を貸そうとなったらしい。
マサカズの虚言癖からして、それはあり得ることやが、そのハットリ某という男の真の目的は兄弟の財産狙いと見た方が当たっていると思う。
単なる大義名文のこじつけで、そう言うてるにすぎんと。
そのハットリの実家は九州にあり、兄弟はそこに身を寄せていた。
ある日、アキコさんのもとに、そのハットリと名乗る男から、いきなり「兄弟から手を引け」という電話が入った。
そのハットリが兄弟から依頼されて、その後見人になったと言う。今、その手続きを弁護士と進めている最中やからと。
判断能力の不十分な者を守るために「成年後見制度」というのがある。
マサジローについては「知的障害者」として認定されるのはほぼ間違いないからその資格を有するのは分かるが、マサカズまで軽度の「知的障害者」として九州の病院で診察を受け、その認定を得たのやという。
成年後見制度には、裁判所の審判による「法定後見」と、本人の判断能力が十分なうちに候補者と契約をしておく「任意後見」とがある。
ハットリと名乗った男は、兄弟とその「任意後見」の契約を交わしたという。
アキコさんはすぐにチヨさん夫婦に連絡した。
チヨさんのご主人、シンゴ氏は、そのハットリという男に兄弟と電話でもええから話をさせてくれと申し込むが、「兄弟はアキコ氏やあなた方ご夫婦を怖がっているから電話に出たがらない」と繰り返す。
実際にも、二人の携帯電話にいくらかけても出なかった。
しかし、いくら「任意後見」の契約を交わしたと言われても、本人たちからその真意を確かめんことには「はいそうですか」と認めるわけにはいかん。
本来なら、その「法定後見人」には兄弟の唯一の身内であるチヨさんがなるのが自然で一般的とされとる。
「任意後見」の契約は、そういった身内に断られ、もしくは、そのなり手がいないときの究極の選択としてあるべきもののはずや。
せやないと、悪意の第三者がその人間の財産をその方法で、いとも簡単に手に入れることができるわけやしな。
いすれにしても、「顔も知らん赤の他人に、そう言われたくらいで任せることはできん」と、シンゴ氏はそう言うて突っぱねた。
「どうしても、話をさせないというのなら、警察に兄弟の失踪届けを出すぞ」と付け加えて。
それが功を奏したのか、マサジローからチヨさんに電話が入った。
「アキコさんは鬼みたいな人やで。僕は信用してへんねん」と、開口一番にマサジローがそう言う。
続けて、「お姉ちゃんとシンゴさんも、僕らの財産を狙うてるのやろう」と。
ある程度、予想はしていたことやが、完全にそのハットリという男に洗脳されとるようやったとチヨさんは言う。
マサジローは純粋やが、それ故に人の言葉を信じやすい。それも、優しい言葉に弱い。
マサジローは、母親のハルさんの厳しさを嫌っていた。
ハルさんは、ハルさんなりに必死でマサジローを守ろうとしていた。不憫な子やとも思うていた。
ハルさんが親戚縁者と孤立していたのは、一つにはマサジローのことについて「そんな子は施設に入れた方がええ」とか「そんな子供は一族の恥や」とか言われていて、それに反発したためというのもあった。
知的障害者は、周りが暖かく見守るというのが理想やが、実際にはこういった迫害に近いことが親戚縁者の中から加えられるというのは、それほど珍しいことやない。
特に資産家といった世間体を気にする人間ほど、そういう傾向が強い。
世の中のすべての資産家たちがそうやとは言わんが、貧乏人に比べて情が薄いのは確かや。
そんな気がしてならん。ワシの僻みやろうか。
その母親の深い愛故の厳しさがマサジローには伝わらなかった。
単に優しい言葉をかける人間は「いい人」、怒る人間は「悪い人」、そういう受け止め方しかマサジローにはできんかったわけや。
普通の人間になら、「甘い言葉ばかり吐く者には裏があるから注意せなあかんで」と諭せば分かる。
「厳しく叱るのは、お前のためを思えばこそやで」と言えば理解する。
しかし、知的障害者と呼ばれる人たちの特徴として、純粋な分、そう思い込むと一途に信じ切るという一面がある。
そうなると、少々の説得ではどうにもならん。
「ジロちゃん、良く聞きや。財産放棄というのは分かるわね」
「……」
「お姉ちゃんは、貰える財産をいらないって言ったのよ。そのお姉ちゃんが何で今更、あなたたちの財産を狙う必要があるのよ。それくらいは分かるわよね?」
「分かるけど、アキコさんは僕らから財産を取り上げようとしているんや」
「ジロちゃんに、どうしてそんなことが言えるの。それにアキちゃんは昔から姉弟同然に育った仲じゃない。お姉ちゃんにとっても大事な友達よ。お母さんも信用してすべて任せていたのよ。本当に悪いことをする人だったら、もうとっくにそうしているはずじゃないの」
チヨさんは、懸命にそう掻き口説いたが、電話の向こうのマサジローにはその思いは届かなかった。
「僕は、アキコさんの言うことはもう聞かない。聞きたくない。兄貴とハットリの兄ちゃんにすべて任すから」
そう言うて、マサジローは一方的に電話を切った。
その後、いくら電話をかけても出ることはなかった。
アキコさんは、このままでは済ませられないという思いから、そのハットリという男の素姓を興信所を使って調べさせた。
その結果、そのハットリには過去に、覚醒剤取締法違反と詐欺罪で服役していた前科のあることが分かった。
それで、ハットリが後見人になる手続きをしているというのがウソやと分かった。
ワシやハカセやったら、その話を聞かされた直後にウソやと指摘していたやろうがな。
まず、法的な権限を有する「法廷後見人」になるには、裁判所にその申請をする必要がある。
申請する管轄の裁判所は、その申告者であるマサカズ、マサジローの居住地、つまり住民票のある大阪の裁判所でなかったらあかん。
それを九州できるわけがない。また、しようとするはずもない。
弁護士を通じてと言えば一般の人間をそう信じ込ませるのはわけないやろうが、ワシらには無理や。
第一、弁護士がそんな手続きをするとは、とうてい考えられんさかいな。
もっとも、今となっては、本当にその手続きをしていてくれていた方が、彼ら、特にマサジローを救う手立ては、まだあったがな。
「法廷後見人」を申請した場合、必ずその権利のあるとされる4等親まで親族に確認の通知がくる。この場合、チヨさんがそれに当たる。
当人の希望による「任意後見人」になるためには、その手続きを公正証書で作成せなあかんことになっとるが、例えそれをしたとしても、その親族はその任務に適しない事由があると判断すれば家庭裁判所に任意後見人の解任請求ができることになっている。
さらに、このハットリのように前科のある人間は、法律が「ふさわしくないと定めている事由のある者」というのに該当するさかい、それだけでも容易に解任できるわけや。
それが、ウソで、そのハットリが表面に出ることもなく黒子に徹していたら、どうしようもなくなる。
マサジローの貸金庫から、不動産の権利書を持ち出し所持しとるから、その名義人、所有者として、マサカズがいつでもそれを処分することができる。
実際、その処分が行われた。
不動産を売るというてもアパートや借家は間借り人がおるから簡単にはいかんやろうと思われがちやが、その気になればそうでもない。
第三者の賃貸経営希望者に丸ごと売ればええわけや。もしくは不動産屋に売買を持ちかければ、買い叩かれるやろうが売ることはできる。
その後、購入者が時間をかけてその居住者に出て行って貰って、その土地を処分すれば問題は少ない。
十中八九、そのハットリに騙されていると見るのが自然やが、「関係ない、本人の意志でやっていることや」と言われればそれまでやし、その関係を突っ込まれても「助言、アドバイスをしているだけや」と言われれば、それで終わる。
「先に、こちらで法廷後見人の手続きをしとくべきだった」と、アキコさんやチヨさんは悔やむが今となっては遅い。
アキコさんは、その管理をしていると言うても、その親であるハルさんに頼まれたというだけで、マサカズ、マサジローの正式な依頼を受けて文書での契約は交わしていない。
理由はどうあれ、チヨさんも相続放棄した身やから、その財産に対して口出しできる立場にはない。
唯一、助けられる可能性が残されていたのは、その助けを求めてきた場合だけやが、それも無下に拒否された格好やからどうしようもない。
結果、その消息を絶って約1年後に、マサジローはホームレスとして死体で発見されるという悲惨で残酷な結末を迎えたわけや。
マサカズは財産を処分した後、マサジローが邪魔になって、突き放したのか。
このままでは、一生、知的障害者としての弟の面倒を見ることになる。それが煩わしかったのやないのか。
あるいは、そのハットリ某にすべてを巻き上げられ、マサカズもどこかでマサジローと同じ運命を迎えつつあるのか。
いずれにしても、それはただの憶測やが、当たらずといえども遠からず、やないかと思う。
そして、そのハットリ某にしても、その報いは必ず受ける。
因果応報。自身の行いは必ず自身に返ってくる。ええ事も悪い事もな。
それが世の倣(なら)いや。
ワシは今まで幾度もそういうケースを嫌というほど見てきたさかい、それが手に取るように分かる。
「ジロちゃんは、こんな物を持っていたのよ……」
そう言って、チヨさんが、そのハルさんの墓前でワシに見せたのは、あの大好きだったミッフィーの人形やった。
遺品の中にそれがあったのやという。それが、先日、警察から返却された。
今はハルさんと同じ墓の中に眠るマサジローに、それを手向(たむ)けるために持って来たのやと。
「でも、あの子、笑っていたんですよ……」と、寂しげにチヨさんが呟く。
チヨさんは警察署の死体安置室で、そのマサジローと対面した。
着ている服は汚れてボロボロで、その顔もやつれ果ててはいたが、まるで夢でも見ているかのような穏やかな寝顔やったという。
かすかに笑みを浮かべていたと。
「どうですか?」と聞く警察の担当官に「間違いありません、弟のマサジローです」とチヨさんは答えた。
「それでは私は向こうにいますので何かあったら呼んでください」
担当官はそういって部屋を出て行った。
その刹那、急に白い靄(もや)のようなものが部屋全体を覆い、チヨさんは時間を一気に遡ったような感覚に囚われた。
目の前に、いつもチヨさんの周りをまとわりついていた、あの可愛かった幼い頃のマサジローの姿が現れた。
その傍らに、常とは違う、優しい微笑みを浮かべたハルさんがいたという。
「本当にそれで良かったの?」
チヨさんは、そうハルさんに問いかけたが、その返事が返ってくることもなく、すぐにその二人の姿は消えた。
同時に、その白い靄も晴れていた。
チヨさんは、「結局、私だけが取り残されたみたい……」と寂しげに呟いた。
それに対して柄でもない言葉が、連続してワシの口をついて出た。
「それはクリスマス・イブの夜に現れた小さな奇跡ですよ」と。
「クリスマス・イブの夜には誰でも一度くらいはその小さな奇跡に出会うもんですよ」と。
「マサジロー君も、きっとその奇跡に出会ったんだと思いますよ」と。
「だからこそ、穏やかな寝顔になっていて、微笑みが浮かんでいたのではないですか」と。
ワシは本気でそう考えた。
少なくとも単なる気休め、慰めから出た言葉ではない。
2年前に話したワシ自身が体験した『第176回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■天国からのクリスマスプレゼント』(注2.巻末参考ページ参照)の出来事や去年、ハカセが語った『第28回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■クリスマスソングが歌いたい』(注3.巻末参考ページ参照)など、いずれもそのクリスマス・イヴの夜に起こった小さな奇跡の話やったさかいな。
それがワシの裏付けとしてある。
それと気づくかどうかは別にして誰にでもその奇跡は起きることやと。
「ありがとう、ゲンさん。少しは気持ちが楽になったわ」
チヨさんとは、それで別れた。
その帰り、ワシは国道沿いにあるハルさんが所有していたアパートのあった場所の前を通りかかった。
そこには、そのアパートはすでになく、真新しい銀行の支店が建っていた。
参考ページ
注1.第67回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■生きるために
注2.第176回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■天国からのクリスマスプレゼント
注3.第28回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■クリスマスソングが歌いたい
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