メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第91回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2010.3. 5
■新聞の実像 その1 新聞が斜陽化している本当の理由とは
巨大不沈艦『新聞』。
何か時代錯誤を感じさせるような表現やが、長きに渡って業界関係者の間では冗談抜きにそう信じられてきた。
太陽が西から昇ることがあり得ないのと同じく、新聞が廃(すた)れるような時代など絶対に訪れるはずはないと。
しかし、いくら巨大不沈艦とはいえ、形ある限り、沈む運命は必ず訪れる。
命あるものは死に、形あるものは必ず壊れる。
それが万物共通の宿命でもある。永遠に続くものなど、この世には何もないさかいな。
それくらいの事は誰にでも分かっている。
分かってはいるが、その中にいると、そうとは認められん。認めたくないという心理が働く。
ワシも、いずれは新聞が衰退する刻を迎えるのは避けられんと考えていた一人ではあるが、その現実が目前に迫ってきたと知れば知るほど、やり切れん思いになる。
しかも、そのスピードはワシの予想をはるかに超えて早い。早すぎる。
今からおよそ4年弱の2006年7月7日発行の旧メルマガ『第100回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■新聞の未来』(注1.巻末参考ページ参照)で、
ワシも、紙としての媒体である新聞は、いずれ終焉を迎える日が来ると、常に言うてる。
但し、それは、かなり先の話や。早くても20年後くらいやないかな。
それも単にペーパーレス化が進むということで、新聞そのものが消滅するという意味やない。
新聞は、これからも情報媒体としては生き残ると思う。なぜなら、新聞そのものから得られる情報を必要としとる人間の方が圧倒的に多いと思うからや。
と言うてた。
今もその思いは強い。いや、そう思いたいだけなのかも知れんがな。
しかし、現実はその思いなどに関係なく冷酷なまでに新聞の斜陽化を示唆する事実は多く、最早、その衰退は避けられんところまで来てしまっていると感じさせるに十分や。
その観が強い。
なぜ、そんなことになってしまったのか。
インターネットの著しい台頭。世界規模の大不況。人口の減少傾向による部数減。新聞紙面、および折り込みチラシの激減。悪質な新聞勧誘。新聞経営のミス。新聞販売店の対応の不備など数え上げたらキリがないほど、その理由は多い。
それらが、複合的に折り重なった結果というのも間違いではないと思う。
しかし、それだけではなかった。もっと、根の深いものが潜んでいた。
ワシは、事ある毎に口酸っぱく「どんな状況になっても手はある」と言うてきた。
事実、ワシ自身、どんなに危機的な状況であってもプラスに転嫁する方法はいくらでもあると信じている。
その思いに今も揺らぎはない。
揺らぎはないが、肝心の当事者たちがそれに向けて「何とかしよう」という意欲を持って事に当たらん限り、いくらそれを説いたところで、「馬の耳に念仏」、「馬耳東風」、「犬に論語」、「牛に経文」ということにしかならん。
言うだけ無駄や。
ハカセは長年に渡って調べ、得た情報から、その原因は実は「新聞」そのものにあったという結論に達したという。
「何やそれ?」
最初にその話を聞いたときの、ワシの正直な感想であり疑問やった。
「新聞」が原因で「新聞」が廃(すた)れるやなんて、そんなアホな話があるかと。
「正確に言えば、巨大化していった新聞社そのものに原因が内包していたということです」と、ハカセ。
それはちょうど、太古の地球で巨大化した恐竜が環境の激変に耐えきれず絶滅したように、自身の身体の大きさを持て余したのと同じ結果を新聞も招きつつあるのやと。
恐竜が絶滅した原因として、約6500万年前、メキシコ湾とカリブ海との間に位置するユカタン半島付近に直径10キロくらいの巨大隕石が落下したというのが最も有力な説とされている。
それが原因で地球の環境が急激に変わり、その影響を巨大生物である恐竜がモロに受けたと。
急激な「インターネットの台頭」や「世界規模の大不況」が、新聞にとっては、その巨大隕石に相当しとるのやないかと、ハカセは言う。
新聞社だけに限らず、これまで巨大企業と言われてきた、自動車業界、百貨店業界、建築業界、鉄鋼業界などでも衰退の一途を辿っとるという厳然たる事実にも同じようなことが言えると。
最近では、それにある巨大航空企業まで加わっとる。
つい10年ほど前までは誰もが、それらの大企業が凋落(ちょうらく)することなど予想だにせんかった。
まさしく「不沈艦」そのものやったわけや。
あるいは「飛ぶ鳥を落とす」とまで形容されていたほどの隆盛を誇っていたと思われていた。
それが、ここ数年で一変した。
実際にそれらの業界では、倒産、規模の縮小、業界再編などを繰り返すという厳しい状況に陥っている。
今や、明日、どんな大企業が倒産の憂き目を見たとしても、それほど驚くに値しないと思われるほどに、事は深刻さを増している。
その理由の多くは、実はそれらの巨大化した故の企業そのものにあったと、ハカセは考えとるという。
新聞もその例外ではなかったと。
巨大企業である新聞が没落していく様を巨大不沈艦『新聞』という形容で言い表した。
その方がその沈み方も迫力があってリアリティを増すやろうということで。
ただ、巨大不沈艦『新聞』となるには、それなりの紆余曲折、プロセスを踏んではきている。
一朝一夕にそうなったわけやない。
現在、有力巨大紙と呼ばれる新聞社は、全国紙5紙とブロック紙3紙、および地方紙の有力数紙程度と言われている。
その線引きをどこでするのかという問題はあるが、最低でも数十万部以上の部数を確保していて、それなりの自社ビルを持っているのがその条件ということになる。
ただ、それはここ数十年の間にそうなっただけで、新聞の歴史そのものから言えばそれほど古い出来事ということでもない。
旧メルマガ『第50回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■拡張員事情の昔と今』(注1.巻末参考ページ参照)の中でも言うてるが、終戦後の昭和20年(1945年)、今から65年前の新聞の総部数発行は1400万部ほどで、現在の約3分の1程度やった。
その後、昭和27年には新聞の総部数は2200万部に増え、昭和40年頃には3000万部、昭和50年過ぎで4000万部、昭和60年前後に至っては5000万部と順調な伸びを見せた。
もっとも、昭和60年前後の約25年前がそのピークで、その頃までに、その巨大不沈艦『新聞』ができたわけや。
それには日本全体が高度成長の波に乗っていたということもあるが、ワシら拡張員の存在も大きかったと思う。
どんな時代でも新聞は売り込まん限り売れるもんやないという厳然たる事実があるさかいな。
もっとも、新聞が、その「日本全体の高度成長の波」を煽る報道をした結果というのもまた事実やから、その意味での功績も大きいというのは認めるがな。
拡張員が新聞を売りやすい土壌を作ったという点において。事実、その頃が拡張員の黄金期やったという。
その後、新聞の伸びにかげりが見え始め、現在に至るまで、ほぼその数字は横ばい状態になっている。
ただ、現在の数字は多分に「押し紙」「積み紙」などで水増しされたものやというのは否定しきれんがな。
実際は確実に年間数十万部単位での減少傾向にあると。ええとこ、その8割程度しか実部数はないのやないかと。
ちなみに、2009年、つまり昨年はついにその減少が百万部の大台に乗ったということや。
その傾向に今のところ歯止めがかかりそうにない。
いずれにしても、新聞各社は日本の高度成長期と共に大幅に巨大化していったのは間違いない。
実は、この日本の高度成長期と景気の波の振幅が、それらの新聞社に大きな影響を与えてきたという側面がある。
その影響がええように出れば問題はなかったのやが、巨大化した企業の多くがそうであるように大いなる勘違いを生む結果になった。
人は自分の立場や地位が上がる毎に自身の値打ちが上がったと錯覚しやすいということがある。
中小企業より大企業、一般社員よりも課長や部長という幹部社員の方が上やと誰でも考える。
その所属する企業に力が増すことで、それが自身の実力やと錯覚する。
その最たる錯覚に陥っていたのが新聞社やったと思う。
その錯覚が、「言論の自由」を守るのは自分たちだけに与えられた特別な使命で、その権利を有する唯一の存在やと考える。
それにより、新聞社は、あらゆることを知る権利が特別にあるという思い上がりも生まれた。
それがために、大手新聞社の組織する「記者クラブ」に所属している者だけが特定の情報を得る権利があると考えとったわけや。
かつて、1989年3月8日までは、法廷で一般傍聴人はメモをとることすら許されてなかった時代が長く続いていた。
その理由というのが、「法定内の静けさが乱される恐れがある」、「証人が不安を感じて正直に証言しなくなる恐れがある」からというものやったという。
実際には、そんなことがあったという事実もなければ、その可能性もほとんどないというのも誰にでも分かりそうなもんやけどな。
理由になっていない。
しかし、現実には法廷でメモを取ることを認められていたのは、「司法記者クラブ」に所属する大手新聞社の記者だけやった。
おかしなことに、その「司法記者クラブ」に所属する大手新聞社の記者たちがメモを取る分には、その禁止理由は適用されんかったという。
それに異議を申し立てたのが、アメリカ人弁護士ローレンス・レペタ氏で、俗に「レペタ事件」、「レペタ裁判」と呼ばれとるものが、それや。
最高裁の判決では、メモを取ることは権利として認められないとして、上告は棄却されたものの、「筆記行為の自由は憲法21条1項の規定の精神に照らして尊重されるべきである」となった。
つまり、判決では、法廷でメモを取ることは権利の保障ではないが、しても構わないと認められたわけや。
その意味では、この判決は原告の実質的な勝訴やったと言える。
これに関して、ジャーナリストの江川紹子氏のブログ(注3.巻末参考ページ参照)に興味深い記述がある。
その部分を抜粋して引用する。
当時、新聞社はメモ解禁に否定的だった。その理由を聞くと、ある知人の記者がこう言った。
「これまで自分たちだけで座っていた座布団に、誰か知らない人たちがお尻をのっけてきた、そんな感じがする」
そして今、様々な役所の資料がインターネットを通じて直接国民に公開され、大臣会見がフリーランス記者に開放され、今回のようにツイッターによるリアルタイムの情報公開が行われ……。気づいてみたら座布団に、次々にいろんな人がお尻を載せてきて、居心地が悪い、という気分に陥っている新聞社の人たちは結構いるのではないだろうか。
でも、もう少し違う考え方ができないだろうか。
人々の生活が多様化している中、広く急いで知らせた方がいい情報などは、いろんなメディアを通じて流した方が望ましい。
記者会見なども、役所や政治家による公開情報の提供なので、なにも新聞記者だけのものにしておく必要はない。
まさしく正論やと思う。
しかし、その当の新聞社には、それが正論とは気づかず、また認めようとせず、自分たちの権利が当然のものとして認識していたことになる。
それは、新聞がメディアの中枢を担っていると固く信じていたからに外ならんと思う。
自分たちだけが唯一無二の報道機関との奢(おご)りがあったからやと。
そのため新聞社の多くはインターネットというものを軽視、過小評価しすぎてたと思う。
何ほどの脅威になろうかと。
その軽視が後手を踏み、今や報道の中枢すら奪われかねん状況に追い込まれとると言うても過言やない。
今になってそれを悔やみ、そのネットに本格参入しようと、あれこれ画策しとる新聞社も多いが、時すでに遅しの観が強い。
新聞業界でも後発の新規新聞社を立ち上げて、既存の新聞社に追いつき追い抜こうといくら頑張っても無理な事やというのと同じように、すでに確立されつつあるネットの中で、報道のイニシアチブを取ることなど不可能に近いと思う。
現在、日本においては「ヤフー・ジャパン」と「グーグル日本」が、そのネット報道を牛耳っている最右翼ということになる。
どんなに頑張っても既存の新聞社では、そのネットでそれらを超えることはできんやろうと思う。
せいぜい、その傘下に入る程度が関の山で、それが現時点で選択でき得る最上の策ということになる。
もちろん、その根拠があって言うてることや。
それが、今回のメルマガの核心でもある。
新聞社もそれまで長きに渡って報道の最先端にいたわけやから、インターネットの到来を予期していたのは間違いない。
その初期の頃には新聞紙面でも盛んに報道していたさかいな。
それにも関わらず新聞社がなぜインターネットを軽視、あるいは無視し続けたのか。
「ヤフー・ジャパン」や「グーグル日本」に先駆けて、その分野にその初期の頃から参入しようとしなかったのか。
インターネットでも報道のイニシアチブを取ろうと思えばできた可能性は高い。
新聞社の多くは、テレビ局ですらその傘下に持っていて、その影響力には絶大なものがある。
それと同じ手法をインターネットが到来した初期に採ってさえいれば、現在の「ヤフー・ジャパン」や「グーグル日本」以上のポータルサイトを構築できていたかも知れん。
あるいは、その頃やったらアメリカ本国の「グーグル」や「ヤフー」との業務提携も可能やったのやないかと思う。
そうすれば、テレビでそのニュースが流されるのと同じように、そのポータルサイトでも独占的なニュース発信ができたはずや。
新聞社も今以上に巨大企業になっていた可能性も考えられた。
それをせずに後手を踏んでしまった結果、現在の状況に陥っていると言うしかない。
単にその見通しが甘かったからと言えば、そういうことになるが、なぜ、そうなってしまったのかを考えれば、どうしてもある結論に到達せざるを得ない。
新聞社に、その見通しのできる人材が不足していたと。また、それを提案できる環境になかったと。
極論すれば、偏(ひとえ)にそれは新聞社内部の社員構成、幹部構成に尽きると思われる。
どういうことか。
毎年、決まった人員が入社していて各年代の社員が均一になっていれば、現在とは大きく違った状況になっていたと思われる。
なぜなら、実社会との感覚のバラツキが少なくなっていたはずやからな。
ところが、現実には、その社員構成に大きな偏(かたよ)りが起きてしまっていた。
しかも、それはほとんどすべての新聞社で同時に起きていたことやと分かった。
『2011年 新聞・テレビ消滅』(注4.巻末参考ページ参照)という書籍に
それを裏付ける記述があった。
ちなみに、この著者は過去に大手全国紙で新聞記者をされておられた方や。
その部分を引用する。
私が勤めていたM新聞の例でいうと、1980年代末のバブルのころはものすごい数の新卒を採用していた。88年入社の同期は80人あまり。それが89年、90年、91年とバブル末期に近づくに従ってどんどん増え、91年には150人近い新卒を入社させている。
ところが91年後半にバブルが崩壊し、92年の入社は20人前後にまで減った。あまりにも計画性のない人事計画としか言いようがないが、この新卒を極端に減らすという人事戦略はそのまま90年代末まで維持され、この結果、90年代の入社組の数は80年代入社組と比べるとおそらく3分の1程度になってしまったのだ。
つまりは1970年代生まれのロストジェネレーション世代が、新聞社の中ではたいへんな少数派になってしまったということだ。
実際、1990年代後半には記者がだんだん年齢が上がってきてしまい、たとえば本来は二十代の若手記者が5、6人で回しているはずの地方支局に三十代の記者ばかりが滞留しまったり、せっかく支局を終えて本社にあがってきても、後輩がいないためにいつまで経っても最年少の若手から脱却できず、三十代なかばになっても雑用ばかりをやらされるといった事態が生じていた。
これは新聞社編集局における世代のギャップを拡大させる要因になったのは間違いない。
さらにいえば1970年代前半に入社した団塊世代ともなるともっと数は多くてM新聞ではこの世代の同期生がロストジェネの10倍近い200人まで達していた。
雇用が景気に左右されるというのは、ある意味、致し方ないとは思うが、やはり極端なやり方は世代間のギャップを生むことにつながり、組織そのものに悪影響を及ぼす。
各年代が均一になってないと、当然のようにその感覚に違いが生じることになり、意見や主張も偏ったものになる。
その世代間の感覚の違い、俗に言う「ジェネレーションギャップ」が新聞社に大きな影を落としていたと考えれば、すべての説明がそれでつく。
人はその組織の中にいると、そこで長年培われてきた過去の慣習やしきたりを重要視しがちになる。
また、経験的にもその方が効果が上がると信じる。
それ事態は、さして悪いとも言えん。何もない平時であれば、それでもええ。
しかし、時代が大きく変貌する、またそう要求される場合は、それではどうしようもない。
時代の先駆者になるためには、いち早くその時代の先取りをせなあかん。そのためには若い感覚が必要とされる。
しかし、「ジェネレーションギャップ」があるために、それができんようになっていた。
若い革新的な意見が封殺されるということが起きたために。
特に、常に報道の中心、王道を歩んできたという自負の強い新聞社にその傾向が強かったと思われる。
先の『2011年 新聞・テレビ消滅』の筆者の話を総合すると、新聞社の構成員は1970年代前半に入社した団塊世代の56歳から61歳までが一番多いということになる。
一般的に新聞社の定年は60歳とされとるが、幹部社員、重役クラスはそれ以上の者も多いというから、実質的に新聞社の実権を掌握しているのは、その年代の人間と見て間違いないやろうと思う。
次いで、1988年から1991年までのバブル期世代、43歳から46歳まで多いということになる。
それに反して、1992年から1999年のバブル崩壊後に入社した本来ならその中枢を担うはずの34歳から42歳までの社員は、それらのピーク時の3分の1にも満たないという。
しかも、周知のとおり、その雇用形態は2000年代に突入しても、より厳しくなっとるのが現状や。
つまり、若年層になればなるほど、新聞各社にはその構成員が少ないということになっとるわけや。
ちなみに、先のM新聞の新卒採用は、ここ数年50名程度やという公式発表がある。他紙も似たような状況や。
この程度ではいくら団塊の世代が定年で大量に引退していっても、すぐには若返るのは難しいと言うしかない。
世代交代など遠く及ばない。
老害と言うと語弊があるが、これやと、今後もしばらくの間、そのベテランが幅を効かせ、過去のやり方を踏襲するだけにしかならず、新しい感覚や冒険心が新聞社に芽生える土壌はとてもやないが期待できるわけがない。
その「しばらくの間」が問題で、若い革新的なリーダーが誕生するまで新聞社が果たして持ち堪えられるかということになる。
若い世代のリーダーなら、ほぼ間違いなくその初期の頃にインターネットへの取り組みを考えていたと思うが、現状がベストと考えとる人間が数でも地位でも圧倒している職場で、その考えが取り入れられる可能性はほとんどなかったやろうと思う。
いつまで経ってもペーペーのままで、その意見も取り上げて貰えない職場に嫌気をさした新聞社の若手の多くが、他業種への転職に走っているのが現実やという。
それが、益々、新聞社の「ジェネレーションギャップ」を拡げている。
その結果が、現在の新聞の斜陽化が進んでいる原因ということになる。
そうハカセは見とるという。
その考えには説得力がある。
企業は人材で決まる。その人材がおらんと言うのでは話にもならんわな。
新聞社も過去、その時代毎に新しい感覚があったからこそ、著しい飛躍を遂げてきたという紛れもない事実がある。
今となっては良かったのか悪かったのかは何とも言えんが、現実問題として、終戦直後の疲弊しきって営業力の皆無やった時代に、「拡張団」という外部の勧誘組織を作るという当時としては斬新すぎるアイデアのおかげで飛躍的にその部数の獲得に成功しのが、その最たるものやと思う。
あるいは、Y新聞がまだ5万部ほどの弱小新聞社やった頃に、そのY新聞が劇的に部数を伸ばすきっかけになったのが、新聞に「ラジオ欄」を作るというその当時としては、あまりにも奇抜すぎるアイデアのおかげやったということもある。
ラジオはニュースを放送するという観点から新聞のライバルと目されていたさかいな。
そのラジオに与することをしてどうするのかという反論を押し切り、その「ラジオ欄」を掲載したことが、却って新聞の部数を飛躍的に伸ばす結果になったわけや。
現在でも新聞の裏面に掲載しているテレビ欄を「ラ・テ欄」と言うのは、このときのラジオ欄を優先したことの名残りでもある。
それらの可能性が今は何も見えてこない。
もっとも、そのY新聞も当時は弱小やったからこそ、そういう冒険ができたのやないかという見方もあるがな。
ワシは、今まで優秀な頭脳が結集しとるはずの新聞社の連中が、何でワシらの言う程度のことが分からんのかと長い間ずっと不思議に思うていたが、今、その疑問が解けた。
もっとも、疑問が解けた分、底知れぬ徒労感も覚えたがな。
老害のもっとも厄介なところは、人の意見に耳を貸さんということや。思い込みが激しいということもある。
そういう集団に新聞社がなっている限りは、最早、何を言っても無駄で救いようがない。
インターネットの著しい台頭があっても、それを敵視せず、それを利用する、あるいは包み込むという発想を持ち合わせていたら、局面は大きく変わっていたはずや。
不況があっても、ある程度、先を見越した人員の募集を計画的にしていれば、また違った結果になったかも知れん。
結果論で話すのは容易(たやす)いことやと承知はしているが、今まで新聞社には数多くの提言をしてきた手前、言わずにはおられんという気にもなる。
結果として無視され続けてはいるがな。
新聞社の人間がまったくネットを見ないというのならともかく、ワシらのサイトの特質上、今や新聞社がその存在を知らんというのは考えにくいと思うとる。
なぜなら、新聞に関係したキーワードで検索すれば、そのほとんどでワシらのサイト、もしくはメルマガのどこかのページがヒットするさかいな。
別に声が届かんとか無視されているということを恨んで言うてるわけやない。
それだけの値打ちしかないと思われていれば、それだけの値打ちしかないさかいな。
物の値打ちは、それを見る人間が決めるもので作っている人間が決めるものやない。
その程度の道理は弁(わきま)えとるつもりや。
それに新聞社はワシらに限らずネットの論調そのものを無視するという方針のようやから、それはそれで一つの考え方やとも思うていたしな。
それでも、ここにきてその声が届かんかったことへの納得のいく答が得られたのは確かやと思うとる。
哀しい答えやがな。
このままの状況に歯止めがかからず、巨大不沈艦『新聞』の沈没が避けられん状勢となったら、どうするか。
その事態を迎えるまでに、ワシは新聞社よりも、新聞販売店、拡張団との関わりの方が深いから、何とか彼らを助けられる方策を見つけたいと思う。
ひいては、それがワシ自身を救うことにもなるしな。
人はどんなときも絶望したらあかん。例え、その希望が今は何も見えんとしても、その光を見つける努力はするべきや。
その具体的なものはまだ何も掴めてないが、必ず何か道はあるはずや。そう信じとる。
そのためにも、多少はマイナー思考に陥るかも知れんが、今後も新聞の実像というものに、もう少し深く立ち入ってみたいと考えとる。
何でもそうやが、その打開策は、そのものを良く理解していないと考えつきにくいもんやさかいな。
参考ページ
注1.第100回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■新聞の未来
注2.第50回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■拡張員事情の昔と今
注3.Egawa Shoko Journl
注4.2011年 新聞・テレビ消滅
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