メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第92回 ゲンさんの新聞業界裏話

発行日  2010.3.12


■新聞の実像 その2 週刊誌による新聞批判の真の理由とは


ここ数年、大手出版社系列の週刊誌による新聞への特集記事というのが急激に増えて目立つようになった。

そのほとんどが、新聞、特に新聞社への批判的な内容で占められている。

賛美や賛辞するようなものは、ほとんどない。

それでも、誤報記事であるとか捏造記事、不祥事という事実に基づく内容のものなら、何と書かれようと、ある程度は致し方ないと思う。

しかし、「新聞は死ぬのか」、「再生か破滅か新聞断末魔」、「大新聞の余命」といった感じのいかにも一般読者の興味を惹きそうなタイトルを掲げるわりには、予測を中心とした記事ばかりを書き並べて批判するのはどうなんやろうと思う。

もっとも、週刊誌、取り分け出版社系列の書籍は「売ることを第一」と考えるから、どうしてもインパクトの強い売れるタイトルになりがちなのは仕方ないがな。

また、大手出版社系列の週刊誌の編集者には、そのタイトルをつけることに長けた人間が多いさかい、勢いそうなりやすいということもある。

余談やが、大手出版社の編集者の中には、その書籍に売れるタイトルを付ける、考え出すことが最大の仕事やと認識しとる人が多いという。

その善し悪しで、その書籍の売れ行きを左右する、決まるとさえ言えると。

小説などの書籍のタイトルは、著者がつけたものがそのまま使われると思っている人が多いようやが、よほどの文豪、人気作家以外では、そういうケースの方が少ないという。

多くは、その出版社の編集者が考えたものやと。

出版社にとってタイトルは命。

極端に言えば、そのくらいの思い入れがあるということのようや。

タイトルだけで売れる書籍は多い。

著者は、いいものを書けば売れると考えやすいが、世の中、そんなに甘くはない。

本屋に訪れた人が本を手に取らんでも見ることができるのが、そのタイトルと著者名や。背表紙のほんの一行にそれがある。

目的の書籍を買いに来た人を除けば、そのタイトル背表紙を目で追いかけ、これはと思ったものを見つけた場合のみ、手に取る。

そして、そのタイトルに釣られて買うという人が多い。

もちろん、目次や書き出しの一部を読んで決めるというケースもあるが、タイトルが気に入った読者の多くは、その中身もそれに沿った内容のものと思い込みやすいから、それらすべてを好意的に受け取る。

面白そうやと。

出版社の編集者は経験的にそれを知っているというか、そのタイトル命という不文律を伝統的に教え込まれてきとるから、どうしてもそれを重視する。

タイトル会議というのがある。

その書籍次第では担当編集者が独断で決めるケースもあるが、出版社によってはそのタイトル会議を開いて決められるという。

ある出版社の編集者の話やと、その場で数十から百程度のタイトルが並ぶこともあり、その中から選ばれるケースもあると。

そこで決まるものに、業界で「飛ばし」と呼ばれとるものがある。

「飛ばし」とは、新聞や雑誌などで、裏付けも満足に取らんと不確かな情報や憶測に基づいて書かれた記事のことを指して言う。

その内容とかけ離れていても、それにより売れると判断されると少々の誇張は度外視して「飛ばし」気味のタイトルをつける場合があるという。

例えば「○○でも分かる」とか「5分で分かる○○」、「この本を読めば○○になれる」などというのにそういうのが多い。

「○○でも分かる」というのは、たいてい動物を引き合いに出しているが、実際にはその動物がその本を読んで理解できるわけなどない。

それくらい簡単なということを強調しとるわけやが、実際にはそんなことはあり得んわな。

あり得んが、インパクトとしては強いということになる。

「5分で分かる○○」というのも、その本にもよるが、300ページ前後のものやとそれを読むのに、どんなに早い人でも悠に2、3時間はかかる。

それをどうして5分で読んで理解できるというのか。

これなんかもよく考えれば無理のあるタイトルやと誰にでも分かることや。

ところが、それに反発するどころか、「そうか、それなら」と手に取り、その書籍を買う人が結構多いという事実がある。

常識ではあり得ん、無理で不可能なことやと思えるタイトルでも、そう書いてあると何か不思議な説得力が生まれるわけや。

「この本を読めば○○のようになれる」というのも似たようなもので、たいていは有名スポーツ選手、話題の著名人というのが多いが、本を読むくらいでその人間になれるわけがない。

それに、そういう本をよく読めば、「そうなれるかも知れない」という可能性を示唆しているだけの内容のものが多い。

はっきり言うが未来への可能性なら、どんなものでも成立する。

興味さえ惹くことができれば、手に取って貰えさえすれば、売り込む出版社にとっては初期の目的が達せられるから、例え「飛ばし」であろうと「ウソ臭い」ものやろうと、それでええわけや。

『タイトルで「おっ、この本面白そうだ」と思ってもらわなければ、中身を見てもらうことすらできないのです』という趣旨の発言を堂々と広言しとる編集者もおられるくらいやさかいな。

年間8万冊前後もの書籍が発刊される現代にあっては、タイトルで注目を集めな売れんと考えるというのも、ある意味、無理もないことやとは思う。

売るための手段の一つとしてなら、それもアリやと。

つまり、日頃からその「飛ばし」気味のタイトルをつけることに慣れている大手出版社系列の週刊誌の編集者にとっては、その中身以前にまず、そのタイトルの選定に力を注ぐということが身に染み込んどるさかい、勢いそうなる。

もっとも、断っておくが、それらの週刊誌に書かれとる新聞に関しての記事の中身がタイトルの内容と大きく違うと言うてるわけやないで。

ただ、週刊誌も営利目的で売れな話にならんから、タイトルほど内容があるとは限らんということが言いたかっただけやさかいな。

ワシは昔から週刊誌の記事は誇張気味のものが多く話半分と思うとるさかい、割り引いて読むクセがついとる。

そう考えて読む分には、それでええと思う。

ただ、せやからと言うて大手出版社系列の週刊誌が何の根拠や裏付けもなく記事を書いているわけやないというのは良う分かっとるつもりやけどな。

唯一、ワシらのサイトを取り上げてくれた『週間ダイヤモンド』誌(注1.巻末参考ページ参照)の記者さん、あるいは結果として記事自体はボツになったが、ある大手週刊誌の記者さんたちから受けた際の真摯な取材は、ハカセも身を持って体験しとるさかい、よけいにそれが分かる。

たいていの週刊誌は、それなりの取材をし、裏付けを取ってから掲載しているというのも良う承知しとる。

このメルマガに『第55回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■週刊新潮の押し紙特集記事について』(注2.巻末参考ページ参照)というのがある。

ここでも、『週刊誌の記事というのは、一般的には誇張された部分が多いというのが定説やが、事、これに関しては、ハカセが取材した内容、およびワシらが直接聞いたものと大差ないということで、その信憑性は高いと思われる』と言うてる。

その他にも、ワシらのところへは、掲載を拒否、あるいは猶予を条件に新聞販売店経営者から「押し紙に困っている」という話も幾つか寄せられとるが、それらも大筋ではその週刊誌の内容と似たようなものやった。

確かに取材したからこそ書けた話ばかりや。信憑性も高い。それに対しての異論はない。

ただ、すべてを把握して書いとるのかとなるとハテナマークはつくがな。

ちなみに、その特集記事のタイトルは『実名告発! 新聞販売店主たちはこうして「水増し部数」を負わされた』というものやった。

これを「飛ばし」やというのは言い過ぎかも知れんが、そのタイトルに沿った内容のものだけを誇張して書かれた記事なのは間違いないと思う。

少なくとも、その週刊誌の記者がすべてを把握して書いたものやないのだけは確かやと言える。内容には一方からだけの見方があまりにも多い。

確かに新聞社が販売店に押しつける「押し紙」は存在する。

しかし、それと同時に「積み紙」と言うて、新聞社に内緒、あるいは誤魔化して報告する販売店側の虚偽の水増し部数があるのも事実や。

その部分には一切触れられていない。

さらに言えば、その記事はいかに新聞社が卑劣な行為をしとるのかを並べ立て、その販売店の店主たちがどれだけ弱い立場にあり一方的な被害者であるかのように書かれてあるが、事実は少し違うと思う。

記事を見る限り、「押し紙」により窮地に立たされ、あるいは廃業に追いやられたその販売店の店主たちは一様に、真面目に仕事をしてたのに、なんでこんな悲惨な状況に追いやられなあかんのかという論調になっている。

ワシも同じ業界の人間やから、それについてはそのとおりという部分も多いと知っているし、同情できる点も多い。

しかし、それと同時に、彼らにまったく落ち度はなかったのかということを考えた場合、一概にそうとも言い切れんやろうという思いもある。

例え、新聞社からの押し紙があったにせよ、その分のチラシ代金を業者から取っていたという事実は、そこではあまり語られていない。

その週刊新潮の取材に答えられた販売店の方たちも、「押し紙」による被害は強調していても、自らの過ちには言及していないというか、その反省の弁は、少なくともその記事からは窺(うかが)うことはできんかった。

もっとも、それを指摘されれば素直にそれと認める販売店主の方が大半やと思うから、単にその部分の記述が欠落しとるだけなのかも知れんがな。

あるいは、それを取材された週刊誌の記者さんが業界の詳しい事情を知らず、そこまで突っ込んだ指摘ができんかったということも考えられる。

そのため単に聞かれない事に答えてないだけで、それが記事になってないという気もする。

それが、ワシには片手落ちにしか見えんということや。それでは確かな事実は伝わらんのやないかと。

新聞販売店には、新聞社から送られてくる公売部数と実際に配達する実売部数というのがある。

その差が余剰新聞ということになるわけや。

その記事にある販売店店主さんたちは、その余剰新聞の多くが押し紙であり、それは新聞社の詐欺的行為に等しいと訴えている。

少なくとも記事にはそう書かれている。

そうであるなら、その余剰新聞の部数を含めた折り込みチラシ代金を業者から徴収しとるその販売各店の店主たちは、それについても明らかに詐欺的行為が成立すると自ら認めとるということにもなるわけや。

それが一度だけとか、一過性のものやったと言うのなら、いざ知らず、たいていは長年に渡り慣習として続けてきたことやから、道義的、法的な見地で言えば、悪質性がより高いということになる。

しかも、これに関しては、その折り込みチラシ代金そのものを受け取ることのできん多くの新聞社には何の関係もない話と言える。

販売店がその汚名を回避するためには、本来なら、実売部数である配達分の折り込みチラシ代金のみを業者から受け取っておくのが筋やなかったかと思う。

それをせず、配達されない折り込みチラシ分と承知の上で、その代金を受け取っていたというのは、どんな理由があれ正当な行為とは言えんわな。

もっとも、これに関しては、その折り込みチラシの納入業者が「詐欺行為」として、その販売店を訴えん限り罪に問われることはないやろうがな。

現在の「押し紙」の仕組みを作ったのは新聞社に間違いはない。

新聞紙面の広告費をより多く得るため、維持するためというのが、その理由として挙げられるが、それも確かなはずや。

いみじくも、その週刊新潮の記事に、主要紙の経営首脳の弁として、

「そもそも“押し紙”の起源は、広告料にある。戦後のある時期から、紙面の質ではなく発行部数によって広告料を決めるという基準を大手広告代理店が作ったたため、以後、各社とも部数拡大に血道を上げる結果になった。その部数拡大で最も手っ取り早い手法が“押し紙”でした」

とある。

おそらくは、それが真実、本音やろうとワシも思う。

バブル崩壊までは、それほど押し紙をせずとも、新聞の購読部数は右肩上がりに順調に伸びていたからまだ良かったが、バブル崩壊後、部数が伸び悩むようになると、その広告費の減少を恐れた新聞各社が、その部数増のために「押し紙」をすることで補おうとした。

それが事の起こりというのも説得力がある。

世の中の仕組みは立場の強い者から弱い者へ押しつけられると相場が決まっとるさかい、新聞販売店が、その新聞社の意向に逆らえんかったというのも良う分かる。

その点では、確かに被害者やと言える。

ただ、過去においては、その押し紙によるマイナスだけがあったのやなく、その分の折り込みチラシ代金の収入や新聞社からの補助金などで、何とかその経営を維持できていたものと考える。

その状況が現在も維持できていれば、その週刊誌で訴えられている販売店の店主の方々も、その声を上げることはおそらくなかったはずや。

それが、ここ数年の長引く不況により企業からの折り込みチラシ依頼そのものが減少して、その収入が激減し、経営が立ち行かんようになったことで、その押し紙の負担に音を上げ始めるようになった。

訴えの根本はそういうことやろうと思う。

もっとも、新聞各社は、販売店に余剰新聞があるのは承知してたとしても、その「押し紙」の存在自体は認めとらんようやがな。

その理由の大半は、新聞各社が販売店に対して「余剰新聞の発注はしない」ようにと公式に通達して、その誓約書まで提出させているからやという。

ただ、圧力というのは、無言であっても圧力にはなり得るわけから、形だけの体裁が整っていれば良しというのは、どうかとは思うがな。

結果として、その記事のとおり販売店店主の「押し紙をなくしてくれ」という訴えが聞き届けられんかったというのは、状況的には「押し紙」が存在する何よりの証やと考えるさかいな。

そこに有言無言のいずれにしろ某(なにがし)かの圧力があったのは間違いないやろうと。

その一方で、この業界には、その「押し紙」とは正反対なものに「積み紙」というのが存在するのも、また事実としてある。

新聞社から強制的に送られるのが「押し紙」なら、「積み紙」というのは販売店自らが望んでそうするという性質のものや。

「万紙」と呼ばれているものがある。

部数1万部以上がそう呼ばれ、その万紙以上を扱う販売店は、業界でも大規模販売店として認められることになる。

部数至上主義を掲げる新聞社は、当然のようにその大規模販売店を大事にするからその待遇や諸条件もその他の販売店より良くなるのが普通や。

また、それは業界でのステータスでもあるから、それに届くところにある販売店は多少無理をするということがある。

例えば、公称部数9000部の販売店があったとする。後、1000部あれば、その「万紙販売店」の仲間入りができる。

言えばその見栄のために、敢えて「積み紙」をしてまでその部数を粉飾するケースもあるわけや。

「押し紙」を訴える側は、販売店の余剰新聞すべてが「押し紙」やという主張が多く、この「積み紙」については、ほとんど言及されていない。

それには「押し紙」を、一方的な販売店だけの被害とした方が闘う上では好都合と考えてのことやろうが、物事は正確に伝えんと、その事実が広く世間に知れ渡った場合、新聞社への不正を追及する上において、それがマイナスに作用するのやないかと危惧するがな。

週刊新潮の記事には、その販売店店主たちの告発について新聞各社に質問状を送ったところ、

「明らかな事実誤認が少なからずあります。正確な報道を求めます」

「弊社が注文部数を超えてお送りすることはありません」

「一方的な主張については明確に反論していきます」

という返答がそれぞれあったという。

これに対して、記事は「各社とも痛痒の欠片すら感じていない。その傲岸こそが自らの首を絞めていることに一刻も早く気がつくべきなのだ」と断罪しとるが、それは「積み紙」の存在とその事実を知らんからこそ言えたことやないかと考える。

ワシが、『その週刊誌の記者がすべてを把握して書いたものやないのだけは確かや』と言う所以(ゆえん)がそこにある。

ただ、反論する新聞社側もそれに対して否定するだけやなく、一般読者にも客観的にそれと分かる説得力のある説明をするべきやとは思う。

もっとも、そうすることで今まで新聞社がタブーとしてきたことにも触れなあかん部分も出てくるさかい、それもできんと考えとるのかも知れんがな。

ワシから言わせて貰えば、いずれも説得力の欠ける不毛な言い争いにしかなってないということや。

こういった事案の多くは、週刊誌側から仕掛けるケースが多い。

なぜか。

一つには、現在、新聞業界に対する批判的な記事を掲載すれば売れ行きがええということがあるのやと思う。

今回、この話をするきっかけになったのは、ある読者から2月22日号の週刊東洋経済に『新聞・テレビ断末魔』というタイトルの特集記事があると教えて頂いたことからやった。

早速、ハカセが、それを知るとすぐに近所のそこそこの大手の書店に買いに走ったというが、発売日2日しか経っていないにも関わらず品切れになっていて、結局、取り寄せて購入するまで一週間以上かかったという話や。

通常はそういうケースは少ない。たいていは次の発刊日の前日まで、その号のものがある。

以前にも、新聞に関する特集記事が掲載された週刊誌でも同様のことがあったから、それについてハカセは調べてみたという。

すべてとは言い切れんが、その多くがやはり売り上げが好調で完売に近いものが多かったと。実際に、取り寄せでも入手できんかったものも多いと。

今や「新聞ネタは売れる」というのが、新聞社系列の週刊誌以外では「常識化」されとると言うてもええほどやという。

ネタと売り上げに困れば「新聞ネタを打て」と。

以前、5、6年前までは、局部的には特定の週刊誌と新聞社の争い、論戦というものもあったが、今のように露骨な「新聞叩き」と言えるような記事が、多くの大手出版社系列の週刊誌に掲載されるようなケースは皆無やないにしろ少なかったのは確かや。

それまでは、新聞社と週刊誌には、お互い不可侵とも言える暗黙の了解事項が伝統的に長く続いていた。

特に新聞は、同業他社と論戦したり、正面から批判し合うたりすることなど稀で嫌う体質があるというから、よけいそうなる。

新聞社にとって週刊誌は敵視する対象というより、その週刊誌からセンセーショナルな事件に発展するケースも多いため、却って新聞記事の貴重な源になるさかい、なくてはならんものと考えとる記者さんもおられるとのことや。

実際にも週刊誌から端を発した不祥事、大事件というのは多い。

週刊誌は週刊誌で「新聞が書けない記事」を売り物にするという一面があるため、新聞社とぶつかるよりも、そちらに重きを置くことが多いというのもあった。

そのため少々のお互いの不正、スキャンダルには目をつぶり、お互いの棲み分けというのも、それなりに尊重していたわけや。

それには新聞に絶大な力があったということも大きい。

新聞に掲載された記事と週刊誌に載った記事のどちらを信用するかとなると、以前は文句なく新聞やった。

もっとも、今でも新聞の方が週刊誌より信頼性が高いと言う人は多いやろうがな。

ただ、その頃にも『露骨な「新聞叩き」と言えるような記事が、多くの大手出版社系列の週刊誌に掲載されるようなケースは皆無やない』と言うたとおり、新聞の誤報道や偏向報道、記者などのスキャンダルがあると記事にすることは少なからずあった。

しかし、それがあると、その標的にされた新聞社は、自社に不利な記事を掲載した週刊誌の広告を不掲載にするという対抗手段に出ることが多かった。

新聞には数多くの大手出版社系列の週刊誌の広告記事が掲載されている。

その広告記事がなくなれば、その週刊誌の売れ行きも激減する。それくらい新聞には絶大な力が厳然としてあった。

その怖さがあるから迂闊な「新聞叩き」ができんかったのやと思う。

それが今は違う。新聞の力が弱まった。また、そう思われている。

それにはネットでの「新聞批判論」を味方につければ売れると判断し、公然とそれを週刊各誌が「新聞批判特集」というのを展開し始めたことが、それを裏付けとるのやないかと思う。

そして、実際にもそれが今のところ図に当たっているからこそ、その拡がりが大きいわけや。今後も続く可能性は高い。

ついでに言えば、過去において新聞批判していた週刊誌に対しては、その回の広告を不掲載にするということで対抗していた新聞社も、昨今は広告収入の激減ということもあるのか、名指しで批判されていても、以前のようにその広告を外してないという事実がある。

先の週刊東洋経済の『新聞・テレビ断末魔』の号にしても、そこで名指しされた新聞社が、その広告を掲載しているという、今までのその新聞社の対応からは考えにくい事態が起きている。

しかも、それに「売り切れ店続出」というフレーズまでつけて宣伝しているにも関わらず。

週刊誌が前号の宣伝を翌週の号の広告の際にも同時掲載するのも異常なら、その文言を2週に渡って見逃し、不問に付す新聞社も今までの経緯からすれば異常なことやと言える。

この事実は取りも直さず、週刊誌側が新聞批判の特集をすれば売れるということを広言しとる何よりの証拠やないかと思う。

それを新聞社は知ってか知らずか容認しとるという図式になっとるわけや。

これをどう見るか。

週刊誌側の論調の多くは、ネットでのそれと同じように「新聞は最早、命運が尽きた。消滅に向かっている」というものや。

しかし、ワシには、その新聞云々を批判する前に、その週刊誌自身の経営を危惧する方が先やないのかという気がするがな。

新聞以上に週刊誌の発行母体である出版社業界の方がはるかに厳しい状勢に晒されとるわけやさかいな。

その一々を名指して説明せずとも大手の有名週刊誌が相次いで廃刊の憂き目に遭っているのは、それこそ周知の事実やと思う。

生き残っている有名週刊誌も10年前と比較すると、その発行部数が軒並み半減、もしくはそれ以下になっとるのが実状やさかいな。

かろうじて微減に止まっている、あるいは横ばいなのは一部の人気経済誌くらいなものやというデータがある。

一流と呼ばれとる出版社の有名週刊誌ですらそれやさかい、二流、三流の出版社、週刊誌ともなれば目も当てられん状況になっとる。

2007年に倒産した出版社はそれまでの過去最多で55社。翌年の2008年はそれよりは3社少なくて52社やったという数字がある。

去年の2009年はまだデータが出てないが、間違いなくそれに近い数字が出るものと予想されている。

これは出版業界にとっては、未曾有のとんでもないことやと言うしかない。

明日、どんな週刊誌の廃刊があっても、大手出版社の倒産があっても不思議やない状況やさかいな。驚くに値しない。

まさに出版社にとって冬の時代が到来したと言える。

それに比べれば新聞は、まだマシな方や。

見える形としては部数の微減でしかないさかいな。

もっとも、2008年には業界全体で100万部も減少しとるのやから「微減」やないやろうという見方もできるが、それにしても5000万部の100万部やから、2%の減少にしかならん計算や。

出版業界のそれと比べれば「微減」の範疇やと思う。

それに、出版社のように一部のローカル新聞社、業界紙を除いて倒産した新聞社も今のところないさかい、いくら厳しいと言うても、そのレベルが違う。

それには、新聞の場合は、別に広告にそれほど力を入れずとも、ワシら勧誘員が存在する限りは売れるということが大きいのやないかと考える。

実際、テレビコマーシャルなんかで新聞の宣伝はしとるが、それを見て新聞がほしいと言う人間は、ほとんどおらんさかいな。

そのセンスのなさというのもあるが、それ以上に「どうしても売り込むんや」という迫力、熱意が感じられんものが多いというのもある。

昔から、ワシは新聞のテレビコマーシャルは単なる新聞社の体裁のためにしとるというくらいにしか見てなかったさかい、よけいそう感じるのかも知れんがな。

他業種の営業マンのように、「テレビコマーシャルで人気の○○です」という営業トークなんかも使えんし、例え使うたとしてもほとんど何の効果も期待できんと。

それで契約が取れることなんか皆無に近いと。

未だかつてワシ自身、テレビコマーシャルがええからという理由で成約した経験はゼロやさかいな。

早い話が、新聞はワシら勧誘員さえいれば売ることができるわけや。

それに対して出版社の週刊誌や書籍は、やはり宣伝せんことには売れんという弱さがある。

週刊誌や書籍は書店で売るのが一般的や。そして、それらの書店は客が来るのをただひたすら待つだけという待ちの営業が多い。

現在は書店にもいろいろ趣向を凝らした所も多いから、それなりに集客の努力をしとるようやが、それでも多くの書店は客が来てくれな話にならんことには変わりがない。

そのための宣伝の多くを新聞紙面に託しているのが現状やと思う。

現在、新聞紙面での出版社の広告と思えるものは相当数ある。すべての業界中、その掲載量においてはトップクラスやないかと言えるほどに。

その新聞社を週刊誌が叩いて、本当に「新聞の消滅」という事態になったら、誰が困るでもない、一番それで影響が出て被害を被るのは、その週刊誌、出版社そのものやないかという気がする。

つまり、その週刊誌は目先の売り上げのために、自らの広告媒体をせっせとつぶそうとしとるわけや。

まあ、そうでもせんと今を生きられんということなのかも知れんが、それでは先はないわな。

新聞社としても、その広告量がトップの出版業界につぶれて貰っては困る。

ただでさえ、新聞広告の依頼が激減しとるところに持ってきて、その上、広告量がトップの出版業界がつぶれでもしたら、それこそ本当に自然消滅の道を歩むことにもなりかねんさかいな。

一番ええのは、新聞社と出版社が共存共栄の道を歩むことやが、今更それができるのやろうかと思う。

もし、それができるのなら両者に生き残る術と道が見えてくるのやないかと考えるのやがな。

その一例として、例えばその週刊誌と、新聞社とが提携して、ワシら勧誘員がそれを売り込むというシステムを構築するという方法が考えられる。

訪問営業で週刊誌を売るわけや。

もちろん、一冊ずつ売ってもしゃあないから、新聞と同じように6ヶ月、1年単位という契約にして。

一笑に付される突飛な話かも知れんが、座して死を待つよりかは、チャレンジしてみるだけの価値はあるのやないかと考えるがな。

今更、新聞社も出版社も乗り遅れたネットに頼っても明るい未来は期待できんやろうと思う。

それに望みを賭けても遅かれ早かれ、その中に埋没して食われるか自然消滅の道しかないと。

それよりも、オーソドックスに人と人の関わり合いで売るアナログ的な訪問営業に転換して賭けてみる方が、まだマシやないやろうか。

デジタルに対抗できるのはアナログしかない。ワシのモットーの一つや。

そうすれば出版社も窮地を脱し、新聞社も大事な広告企業を失わずに済むかも知れん。

さらに言えば、ジリ貧状態のワシら勧誘員にも営業の幅ができ、新たな展開も期待できそうな気がするさかいな。

ただ、どうすれば、その出版社や新聞社をその気にさせられるかという問題はあるがな。

それについては、ワシらの力を超えたことやから、正直言うて何も手はない。

ただ、その窮地を脱したいのやったら、その当事者たちが真剣にそれについて考えな仕方がないということだけは確かやと思う。

そういう視点で見て考えれば、どんな苦境であっても必ず、その方法なり道なりが見えてくるはずやと。

今は一刻でも早く、それに気づいてほしいと願うのみや。



参考ページ

注1.第83回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■『週間ダイヤモンド』誌への掲載で思うこと

注2.第55回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■週刊新潮の押し紙特集記事について


追記 メルマガの感想です

投稿者 キースさん  アメリカ・ロサンゼルス在住 投稿日時 2010.3.12 AM 10:12


アメリカで歯科の仕事をしているキースです。

毎週のメールマガジン、いつも興味深く読んでおります。

先週、今週と新聞離れが進んでいるというお話でしたが、かなり驚いております。

私自身、現在新聞はとっていませんが、それは海外という特殊な環境にいるためで日本にいたら取っていたと思います。

テレビニュースはどうしても公平性があるとは言い難く、まして夕方のニュースの半分は食べ歩きやラーメン特集などばかりという印象があります(日本のニュース番組の特徴だと最近分かりました。多分食べるのが大好きな国民性なのだと思います)。

しかし、新聞や本が売れないというのは本当に悲しいことだと思います。

人は人生において、必ず何度も失敗し、落ち込むものだと思うのですが、本を読むことで救われることはたくさんあると思うのですが、本を読まない世代はどうするのでしょうか。

また良書が減るような気がしてなりません。意外と淘汰され本物の良書が残っているのでしょうか?

かつて友人の中国系アメリカ人から聞いたのですが、ドイツ語と日本語をマスターすれば、世界の80%の知識が本で手に入るそうです(真偽は不確かです)。それほどたくさんの本が翻訳されているそうです。

たしかにアメリカ人が何かで待っているとき自分の本を取り出して読んでいる光景はあまり見かけません。せいぜいゴシップ雑誌がいいところです。

うちの妻は東欧の人ですが、現在母国語の本は辞書以外一冊も持っていないです。

私などは日本語で本が手に入らないところでは住めず、今でも近所のブックオフ(ロサンゼルスには数軒あります)にいったり、アマゾンで注文し、実家から送ってもらったりしています。


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