メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第96回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2010.4. 9
■ボクは新聞配達員になるのが夢なんだ……ヘンリーくんの挑戦
今から10日ほど前。
ハカセから、「ゲンさん、時間のあるときで結構ですから、この本に目を通しておいてくれませんか」と、一冊の本を手渡された。
書籍の題名が『ヘンリーくんと新聞配達』という子供向けの児童文学書やった。
「ちょっと古いアメリカの話なんですが、結構、示唆に富んでいて面白かった本だったので、ゲンさんなりの意見を聞かせて貰えればと思いまして」と、ハカセ。
ワシの感想次第で、このメルマガの題材にしたいと。
ハカセがそうすることにしたのは、現在、カナダに在住されているという「ゆみ」さんと言われる読者の方から、数週間前に届けられたメールが、そのきっかけやった。
それには、
先日、図書館でアメリカの子供向けの本を読みました。
その中で11歳になったら新聞配達ができるようになるので、11歳の誕生日を楽しみにしているという話がありました。
そして、その続編を読むと、11歳の男の子が新聞配達をして、集金、勧誘をしているそうです。
この物語はずいぶん前に書かれたものだと思うので、今現在のアメリカの新聞配達の事情と同じかどうかはわかりませんが・・。
と記されていた。
ハカセは、それに興味を持ち、その書籍の名前を「ゆみ」さんに尋ねると、すぐに、
アメリカの新聞少年のことを書いた子供向けの本は日本語訳が出ているはずです。
私は日本の図書館でも読んだ覚えがありますので。
作者はビバリー・クリアリーでシリーズがいろいろありますが、その中の「ヘンリーくんと新聞配達」、「ヘンリーくんと秘密クラブ」という本にアメリカの新聞少年事情がいろいろ書かれていると思います。
という返信のメールがあった。
早速、ハカセは、その情報を頼りに、アマゾンで調べ、その書籍を購入した。
その本を渡されたワシも、一応、目を通した。
確かに、その話は、1960年代のアメリカの新聞事情について語られているので、現在とは大きく違うと思われるから、その点ではあまり参考になりそうもない。
アメリカでは、子供が主体となって、その配達や勧誘をするというのは、サイトの『ゲンさんのお役立ち情報 その2 ロスでの新聞事情』(注1.巻末参考ページ)で、「でっちさん」という古くからの読者の方から、5年ほど前に、
ホームページに外国の新聞事情について書かれていたので、私も10年程前に5年ほどアメリカのネバダ州に住んでおりましたので、その時の経験をお知らせします。
ネバダといってもほとんどカリフォルニア文化圏でしたが。
日本と違いアメリカで新聞配達といえば小学生や中学生の仕事です。
小さな自転車に三十部程度の新聞を抱えて、家の庭先に投げ入れる姿は微笑ましくもありました。
宅配営業員も日本の強面と違い、中高生で「うちはいらない」の一言で帰ってくれます。
あまり宅配に執着していないのが分かります。
という内容の話を教えて頂いたことがある。
その本は、それを裏付ける内容のものやった。
ただ、そうと知ってはいても意外な面が多いのも事実やったがな。
特に、この本の主人公、ヘンリー・ハギンズという10歳の少年の新聞配達に寄せる思いと行動力、またその勧誘方法の豊かな発想などは、大いに参考になる点が多いと感じた。
少なからず、読者の役に立つ。
ハカセともそれで意見が一致し、今回、その話をこのメルマガ誌上ですることにしたわけや。
今から、ワシの感想とその本には書かれていないアメリカの新聞事情、および日本の事情などを交えながら、そのストーリーを追って話を進めていきたいと思う。
物語は、アメリカの北米西海岸に位置するオレゴン州のワシントン郡グレンウッドという片田舎の町が舞台になっている。
オレゴン州は、北にワシントン州、東はアイダホ州、南はカリフォルニア州とネバダ州に接し、西側は太平洋に面している。
それほど有名な地名がないため、読者の方には馴染みが薄いのやないか思う。
ワシには好きな映画の一つでもある、『スタンド・バイ・ミー』の撮影場所となった、ユージーンという街の近郊、ブラウンズヴィルという地域が、そのオレゴン州にあるというのは知ってはいたから、ある種の郷愁に似た思いでその地名を聞いたがな。
その本の舞台も、『スタンド・バイ・ミー』に出てくる街の風景を思い起こさせるに十分なものやった。
その映画を知っている人なら、その情景を思い浮かべながら読んで頂ければ、臨場感があってええのやないかと思う。
登場してくる少年たちにも、どことなく、その映画と似通った雰囲気を感じさせるものがあるしな。
グレンウッド小学校の5年生、ヘンリー・ハギンズの目の前の芝生に、四つ折りの新聞が落ちてきた。
同じ小学校の7年生のスクーター・マッカーシーが投げたものやった。
アメリカの教育制度は日本と違い、地方分権主義で行われているため、州やそれ以下の群、地域毎で違うのが普通とされている。
ここではオレゴン州の主な地域で採用されている教育制度を簡単に説明して話を進めることにする。
オレゴン州では、小学校、中学校、高校が一体のものと、小学校、中学校が一体のものとの2種類がある。
始業式は9月で、そのときに満6歳になっていれば1年生になる。
ヘンリーは5年生で10歳。7年生のスクーターは12歳で、日本で言えば中学1年生の年齢に相当するということになる。
ちなみに、小学生は5年生までで、6年生から8年生が中学生ということになっている。
つまり、オレゴン州での中学卒業は、日本よりも1学年早いということになるわけや。
但し、高校は12年生まであるから、そこまでいくと日本と同じということにはなるがな。
新聞を投げたスクーターは自転車に乗っていて、片方の足を歩道につき、ジャーナル紙(物語に登場する新聞名)の入ったズック袋を肩から提(さ)げている。
その姿が、ヘンリーには格好良く見えた。
また、「通りを自転車で走りながら、右や左に新聞を投げて、それでお金が貰えるなんて、きっと、ずいぶんいい気持ちがするものだろうな」と、ヘンリーは羨(うらや)ましくもあった。
「なあ、ヘンリー」と、そのスクーターが声をかけてきた。
「キャパーさんが配達員を一人探しているんだ。お前、誰かやりたいって子、知らないか?」
キャパーさんというのは、ジャーナル紙の地区監督員をしている人のことである。
アメリカは日本のような販売店組織というものはなく、宅配は新聞社に雇われた地域毎の地区監督員がアルバイトの少年を雇ってさせている。
たいていは地区監督員の車庫に新聞社のトラックで新聞が運ばれる。敢えて言えば、それが「販売店」ということになる。
早朝や夕方、そこに少年たちが集まって、肩から提(さ)げたズック袋にそれぞれ思い思いに投げやすく折ったり、丸めたりした新聞を30部〜50部程度入れて自転車で配達するわけや。
アメリカ映画で少年が新聞を投げ入れるシーンをよく見かけることがあるが、それが普通の光景で、日本のようにいかつい「おっさん」が配達することはまずない。
「知ってるよ」と、ヘンリーは身を乗り出して言った。「ぼくさ」と。
「だめだよ。おまえは無理だよ」と、スクーター。
「ぼくでは何でダメなんだ。ぼくだって、お前に負けないくらい上手く新聞を投げられるぜ」とヘンリーは口を尖(とが)らせて抗議した。
「かもな。けど、年が足りないだろ。配達は、11歳にならないとだめなんだ」
「ぼく、もうほんんど11だよ。後、2ヶ月ほどしたら誕生日だもの。おまえにやれるのなら、ぼくにだってできるさ」と、ヘンリー。
「うん。けど、11になってないもんな」
スクーターは、そう言うと、自転車で走り去った。
ヘンリーは悔しそうに、遠くの通りの家の玄関に、慣れた手つきで新聞を投げ入れるスクーターを見ていた。
「よし、ノット通りのキャパーさんの所に行って、配達させてくれって直接頼むんだ。大人ぶって事務的に振る舞えば年なんか尋ねられないさ。とにかく、配達員を探しているんだから、きっと、人手が足りなくて困っているに違いない」と、ヘンリーは考えた。
くずぐずしていたら、誰か他の子に先を越されるかも知れない。
そうと決めたら、今すぐ行くしかないと勇んで出発した。
ヘンリーは、車庫から自分の自転車を引っ張り出して、ハンドルに付けていたアライグマの尻尾を外した。
そんなものを付けていたら、子供っぽく見られる。事務的ではない。
これで、大丈夫。もう配達員になれたも同然だ。
ヘンリーはそう思った。
ヘンリーの目には、はや自分が自転車に颯爽(さっそう)と乗って、通りを走りながら、狙いを過(あやま)たず、新聞を左右に投げ入れている様子が見えていた。
そうやって稼いだお金で好きな物が買えるという喜びに満たされていた。
ヘンリーはキャパーさんの所に向かった。
しかし、そこはまだまだ子供のヘンリー。
その途中に「不用品市場」が開かれていて、古いガラクタ好きのヘンリーは、ついそれに目を奪われ、立ち寄ってしまった。
それには新聞配達で稼いだお金で、良さそうな古いガラクタが買えるから、先に見ておいてもいいだろうという考えもあって。
その「不用品市場」に、子猫が4匹、ダンボールの箱に入れられていた。
「この子猫は売り物じゃないんでしょう?」と、ヘンリーは側にいた女の人に聞いた。
「そうよ。売り物よ。1匹15セント。とてもいい子猫よ」と、明るく言う。
ヘンリーは、こういうことには我慢できなかった。子猫は、不用品市場なんかで売ったりするべきではない。命はガラクタとは違う。
「もし、5時半までに誰も買わなかったら、廃品屋さんが持っていくの?」
ヘンリーは、子猫のことが心配で胸がいっぱいになり、自分が急いでいることも忘れ、そう聞いた。
ここらの「不用品市場」は、たいていそういう仕組みになっていたからや。
「いえ、そんなことはないわ。誰かが保健所へ持って行くんでしょ」と、その女の人は、まるで、子猫なんかどうでもいいという言い方をした。
アメリカでも日本でも同じで、保健所に渡された子猫の大半は死ぬ運命しかない。
「保健所なんかに持って行ってはいけないよ」と、ヘンリー。
「私もそう思うわ。ねえ、こうするわ、もうそろそろお店をしまう時間だから、それ1匹15セントだけど、5セントにまけとくわ」と、その女の人が言う。
ヘンリーは迷った末、その子猫4匹を買うことにした。
しかし、子猫の入った箱を持ち歩いて、地区監督員のキャパーさんに会いにはいけない。
仕方なく、ヘンリーはジャンパーの中に、その子猫4匹を隠して訪れた。
「やあ、いらっしゃい。何か用?」と、キャパーさんが優しく尋ねる。
「ぼく……」と言いかけて、ヘンリーは言葉に詰まった。
ジャンパーの下の子猫たちが動いて、それが気になって仕方なかったからや。
これではいけない。務めて事務的に振る舞い、できるだけ11歳に見せようと考えていたとおりに言おうとするが、なかなか言葉が出てこない。
やっとの思いで、「ぼく、ヘンリー・ハギンスと言います」と、どうにかこうにか、それだけを口にした。
すぐに、ジャンパーの中に子猫を隠しているというのが、キャパーさんにバレた。
そこは大人のキャパーさん。それを咎めるようなことは何も言わない。
しかし、ヘンリーの方は、恥ずかしさのあまり、すっかり予定が狂ってしまい、破れかぶれになって、「キャパーさん、ぼくに配達をやらせてください」と、いきなり切り出した。
「そうだね、ヘンリーくん。そのことなら、後、1年か2年待って、もう一度おいで。そのとき話を聞こう」と、ヘンリーが11歳になってないことを見破ったキャパーさんがそう優しく言った。
「そりゃ。ぼく、年のわりに背は低い方ですけど、でも自転車に乗れるし、まっすぐ新聞も投げられます」
「新聞配達というのはね、自転車に乗ったり、新聞を投げたりするだけじゃないんだよ」と、キャパーさんはそう言って、さらに続けた。
「お金を扱うことができないといけないし、どんなお天気の日でも、きちんと時間どおりに、玄関のポーチか郵便受けの中など、お客様の言うとおりに新聞が届くように責任持って見なきゃならん。新聞配達というのは、普通の人が考えている以上に大変なことなんだよ」と。
「ほく、そういうこと、みんなやれます、キャパーさん」と、ヘンリーは尚も食い下がる。
「確かに、やれると思うよ。後、1年か2年すればね。そのときに、もう一度、来てくれたまえね」
それ以上は、何を言っても無駄だと思った。
キャパーさんには、ヘンリーのような子供にとって1年か2年というのは、ほとんど永遠と同じだということが分からないのだろうか。
ヘンリーには、そのことが不思議で不満やった。
大人の1年は早い。それも歳を重ねる毎に加速度的に、その早さを増していく。
「光陰矢のごとし」という時の過ぎる早さについて形容された格言があるが、それは大人だからこそ思いつき、大人だからこそ納得する言葉やと思う。
しかし、子供には、その1年はとてつもなく長い。それに気がつく大人は少ない。
「1年や2年なんかすぐだよ」と大人であるキャパーさんは考え、子供であるヘンリーはその長さに絶望するということが。
それでも、ヘンリーはあきらめるしかなかった。
但し、今日のところは。
「まあ、いいさ。どうにかするぞ。何とかして配達の口を自分の物にして見せるさ。1年も2年も待ったりしないぞ」と、静かな闘志を燃やしていた。
ヘンリーは帰る途中、次の難問にぶつかっていることを知った。
それは、4匹の子猫たちをどうするかやった。
両親が飼うのを反対するのは目に見えていた。
ヘンリーは両親の優しさに期待して、不用品市場にいた子猫たちのことを正直に話した。
但し、どこに行く途中で、その不用品市場に立ち寄ったのかは黙っていた。
キャパーさんの所に新聞配達を頼みに行ったと言えば、それも問題にされる。
新聞配達をすると言えば両親に反対されるのは分かっていたから、先にキャパーさんの所に行って、雇って貰ってから、その話をするつもりやった。
既成事実を作っておいて、断れない状況を作った上で。
そのアテが外れた。
その上、新聞配達を頼みに行って断られたと自分で問題をわざわざ大きくするのはバカげている。
ヘンリーは、そう考えて黙っていることにした。
それに、この子猫たちの問題だけでも、どうも難しくなりそうやったさかい、それ以上、問題を増やすのは、どう考えても得策やない。
難問は一つずつ片付けるに限る。
「つまり、子猫たちを返すところがないってわけだな」と、お父さん。
「そうだよ」と、ヘンリー。
「けど、ヘンリー、4匹とも飼うわけにはいきませんよ」と、お母さん。
「そりゃそうだ。1匹だってダメだ。うちにはアバラー(犬)がいるだけでも結構、大変なんだ。あしたの朝、4匹とも全部、ペットショップのベニカフさんにあげて来なさい」と、お父さんがきつめに言う。
「ちぇっ、パパ」と、ヘンリーは口を尖らせた。
この子猫たちが見知らぬ人に売られていくのは我慢できない。
飼えないのなら、せめて、それぞれ、良い人のところに貰われていくのを見届けたい。
ペットショップに預けるより近所の人に売る方がいい。そうすれば安心できる。
ヘンリーは一計を案じた。
「この近所の人に、ぼくが自分で売り歩いちゃいけない?」と。
「おまえが、そうしたいって言うんなら」と、お父さんは認め、「分かっているだろうが、子猫には一つだけ悪いところがある」と続けた。
「悪いところって?」
「すぐ大きくなってネコになることさ」と、お父さんは、ニヤっと笑って答えた。
子猫が大きくなればネコになるのは、当たり前で、子犬も大きくなれば犬になる。男の子だって大きくなれば、いろいろな大人になる。
しかし、それには時間がかかる。それも子供のヘンリーからすれば気の遠くなるような時間が。
ヘンリーには、お父さんが嬉しそうに笑った意味が分からなかった。
子猫がかわいいのは、その最初のうちだけで、数ヶ月もすれば大きくなって、すぐに厄介者になる。そう言いたかったのやろう。
これも、大人と子供のけっして埋まることのない時間の溝、感覚の違いやと思う。
とにかく、短い間とはいえ、そうするためのいくらかの猶予はできた。
ヘンリーは、とっておきの秘策を考えついて、それを実行することにした。
それが上手くいけば、キャパーさんにヘンリーが役に立つということを認めさせることができ、子猫たちも幸せになれ、一石二鳥になる。
そうヘンリーは考えた。
その秘策とは、『ジャーナル』の購読申込み1口につき、その景品として子猫を1匹つけるというものやった。
アメリカでは、新聞の勧誘は、それを配達する子供たちの仕事でもあった。
日本の新聞販売店のように部数を伸ばすことが最優先され、その増減が死活問題と考えるようなことは、アメリカではほとんどない。
アメリカでは新聞は「必要な人だけが買って読む物」で、日本のそれは「売り込まないと売れない物」という根本的な違いがあるから、新聞に対する考え方や姿勢がまったく違うわけや。
これはどちらがええ、悪いという問題ではなく、それぞれのお国柄の違いやと思う。
とはいえ、そのアメリカでも、新聞を多く売る子供は仲間内からもヒーローとして扱われ、自分の配る部数も増えるから、その分、より多くのお金を稼げる仕組みにはなっている。
ヘンリーの場合は、その実力をキャパーさんに見せつけることで、永遠の時間を待つまでもなく、新聞配達に採用させるように仕向けることが目的やった。
翌朝、早速、取りかかった。
ヘンリーは、スクーターが近所のクリッキタット通りに『ジャーナル』を配るのをしょっちゅう見ていたから、どの家が『ジャーナル』を取っていて、どの家が取っていないか、よく知っていた。
まず手始めに、同じ通りのヘンリーの家から一軒おいたプラマーさんの家に向かった。
「おはようございます。プラマーさんのおばさん」と、ヘンリーは、玄関のドアを開けてくれた途端、自分に出せる一番セールスマンらしい声で明るく話しかけた。
「あら、ヘンリーじゃないの。どう、元気?」
「はい、元気です」と、ヘンリーは答え、子猫の入った箱を抱えて新聞の売り込みにかかろうと一歩前に出たとき、その機先をプラマーさんに制された。
「まあ、ヘンリー。あなた、まさか、この子猫、貰ってくださいって言うんじゃないでしょうね。うちのおじさん、何が嫌いっといってネコくらい嫌いなものはないの。それにあなたも知っているでしょう、子猫のいけないところ。大きくなるとネコになるんですものねえ」と。
ヘンリーは「う……いいえ」と、どぎまぎしてしまった。
「あの、はい、子猫は大きくなったらネコになります……、ぼく、本当は、おたくで『ジャーナル』をお取りになりませんかって聞きに来たんです。子猫の方は……つまり、その、ただ偶然持って歩いていたんです」と、これでは新聞の勧誘にはならないと思い、慌ててそう付け加えた。
「いらないわ、ヘンリー。うちじゃ、昔から『オレゴン新聞』と決めているの。それでなければ、うちのおじさん、朝のコーヒーが飲めないと思うわ」
新聞の断り文句は、ほぼ世界共通やというのが、これでも分かる。
日本なら、例えそう言われも「ハイそうですか」と引き下がる勧誘員の方が少ないやろうが、子供にはそれはとても無理や。
「じゃ、どうも、おじゃましました」と、ヘンリーはあきらめるしかなかった。
ヘンリーはがっかりした気分を取り直して、二件めのベルを押した。
「おはようございます」
ヘンリーは、今度は先方が何かを言い出す前に、こちらから売り込みを開始しようと決めていたので、女の人が玄関を開けるとすぐ、考えていたセールストークを始めた。
「今日は特別耳寄りな話があってまいりました。きょう『ジャーナル』をお申し込み頂きますと、費用は一切無料で、この子ネコを1匹差し上げることになっています」
どんなもんだい! 本当のセールスマンみたいに、ちゃんと言えたぞ。
ヘンリーは心の中で、そう自画自賛した。
「悪いけど、私、子猫はいらないわ。子猫は貰わないで、新聞だけ申し込むことはできる?」と、その女の人は、ヘンリーのまったく予期しないことを言った。
「はあ、それは構わないと思いますけど、でも、これ、すごくかわいい子猫ですよ。今申し込めば大変、得だと思います」
「いらないわ。でも『ジャーナル』の方は取るわ。おいくら?」
ヘンリーは耳をまっ赤にした。
子猫のことばかり考えていて、肝心の新聞代がいくらか知らなかった。そんなことくらいは知っていて当然のことだった。
「ぼく、ぼく、聞いてきます」
ヘンリーは、どもりながら、それだけを言って、その家を出た。
そうはいったものの、キャパーさんにも内緒で勧誘しているので、今更、「新聞代がいくらですか」とは聞けない。
ヘンリーは仕方なく、『ジャーナル』の勧誘は止めて、子猫の貰い先だけを探すことにした。
しかし、それから何軒もの家に行ったが、その度に断られ続けた。
最初は「1匹25セントでお譲りします」と言ってうまく行かず「15セント」、「10セント」、終いには「タダでも」と言ったが、すべてダメやった。
ある人は、「ネコアレルギー」だと言い、別の人は「うちに犬がいて追いかけ回すからダメだ」と言い、その次の人は「うちのネコも子猫を5匹産んだところだから1匹あげましょうか」と言う。
最後には、その4匹の子猫を不用品市場に連れて行った、パンフリーさんという人のところにも間違って行ってしまった。
「うちはワシントンのワラワラに引っ越すもんでね。それで、子猫をどうにかしなければならなかったんだよ。それに、子猫で困るのは……」と、そのパンフリーさんは言う。
「分かってます」
大きくなるとネコになる。
いろんな人に何度もそう言われ続ければ誰だって覚える。
そして、やはり、そのパンフリーさんも「大きくなるとネコになるんでねぇ」と言った。
「もう止めた」と言って、ヘンリーはあきらめた。
誰も子猫なんか欲しがらないんだ。欲しがるぼくには飼えない。なんて世の中は薄情で無情なんだ。
その原作にその記述はないが、ヘンリーはそう言いたかったのやと思う。
仕方なくヘンリーは、お父さんの言った、ペットショップのベニカフさんに引き取って貰えるよう頼むことにした。
「よし、貰っておこう。但し、お金は払えんよ。子猫はなかなか売れないからエサ代もかかるんでね」と、ペットショップのベニカフさん。
「それはいいんです。でも、かわいがってくれないような人には売らないでね」
ベニカフさんは、「大丈夫だよ」とヘンリーに微笑みながら、そう言った。
「いつも、子猫には1ドルの値段をつけるようにしているんだ。1ドル出してでも買っていこうというくらいの人なら、きっと大事にしてくれるからね」と。
ヘンリーは、肩の荷が下りて大急ぎで家に走って帰った。
その後、お父さんが、その子猫の1匹を「引き取りに行って来い」と1ドル札をヘンリーに持たせたという、心温まる話もあるが、ここでは割愛させて頂く。
ある日、スクーターが「おい、ハギンズ。おまえ、今日の放課後、おれの代わりに新聞配達やらないか」と言ってきた。
ヘンリーは内心、嬉しかったが、その様子は見せず、「どうしてだい?」と、そのわけをスクーターに尋ねた。
「もし、誰かが代わりに配達してくれたらYMCA(キリスト教青年会)に残って、もう1時間、泳げるんだ」と水泳好きのスクーターが、そう説明する。
ヘンリーは、少し考えるフリをして、「いいよ。何とか時間あると思うよ」と言って引き受ける。
これは、ヘンリーにとってはチャンス到来ということになる。
実際に新聞配達を上手くこなせば、キャパーさんにも認めて貰えるさかいな。
「これに購読者全部の名前と住所が書いてある」と、よれよれのノートをヘンリーに手渡す。
これは、日本でいう「順路帳」に当たる。
日本では、その住所だけでは、なかなか目的の家には辿りにくいので記号を使って配る所を示しているが、アメリカの多くの街は、日本の京都のように整然と道が区切られているから、そうする必要がない。
何々通りの何ブロックの誰それというだけで、誰にでもそれと分かるようになっているので住所だけ分かれば十分なわけや。
そして、スクーターのノートには、お客の家のどこに新聞を置けばいいのかということがすべて克明に書かれている。
「新聞は、全部6時までに配らないとダメだぜ。お客さんが電話をして文句を言うからな」
「ちゃんと配っておくよ」
しかし、ここで、またもや、ヘンリーに問題が生じる。
ヘンリーのグレンウッド小学校で、放課後に古新聞を集めることになり、それに参加せんとあかんようになったことや。
そのこと自体はクラス毎の競争で面白そうやったし、勝てば映画が観られ、6ドルの賞金も出るというから悪い話やない。
しかし、ヘンリーは、スクーターの新聞を配ると約束したばかりやった。
それに嫌なことがある。それは、その古新聞を集めるために、一軒ずつ「古新聞ありませんか」と聞いて廻ることやった。
子猫の貰い手を探すのにあれだけ苦労したから、またそれと同じようにして家々に頼んで廻るのは考えるだけでも気が滅入る。
中には、ヘンリーが子猫を売りに来た子供と知っている人もいるはずやと思うだけでよけい、そういう気分になる。
「一軒一軒、ベルを押して頼まないでも、何とかごっそり集める方法はないかなあ」
「新聞に広告出せばいいんだよ」と、同じクラスのロバートが気軽に言う。
「ちぇっ、ダメだよ。すごくお金がかかるんだぞ」と、ヘンリー。
新聞の広告欄に広告など、とても出せるわけがない。
まてよ。お金をかけなくても広告を出す方法があるじゃないか。
ヘンリーは、それを思いついた。
タイプライターで、
「求む古新聞。古雑誌。グレンウッド小学校の古新聞回収のため電話くだされば取りに伺います。7−4139。ヘンリー・ハギンズに電話乞う」
と、間違いだらけのタイプやったが、何とかそういう意味と分かるものが打てた。
それを、スクーターの新聞に挟んで配る。
日本で言えば、折り込みチラシということになるが、アメリカにはその発想と慣習がない。
新聞に広告を出すのは広告欄だけしかない。それには販売店というものがないため、すべてを新聞社が仕切るには、そうするしかないわけや。
それに、その折り込みチラシを挟むということになれば、新聞を折ったり丸めたりして投げることもしにくくなる。
その状況で、そうすることを考え出したというのは、ある意味、すごいことやと思う。
誰に教えられたわけでもないやろうからな。
その方法は予想以上に効果的で、多くの電話が入り相当量の古新聞が集まった。
結果、ヘンリーのクラスが優勝し、映画の鑑賞と6ドルの賞金を得ることができた。
その後、ヘンリーはいろいろ努力するが、なかなか配達員にはなれなかった。
やっと、11歳になり、その配達員の資格を得て、キャパーさんの所の配達員に欠員ができたときでさえ、マーフという転校生にそのチャンスを奪われてしまった。
しかし、ヘンリーは、それでも、へこたれずにあきらめなかった。
そして、最後には念願の「新聞配達員」になった。
それまでの話も面白いが、このヘンリーを見ていたら、その活躍は、ある程度想像できるやろうと思うので、ここでは省略させて頂く。
ただ、どうしてもそれを知りたい方は、その本を読まれることを薦める。
残念ながら、今の日本では新聞配達が子供に夢を与える仕事とは、とても言える状況ではないと思う。
ワシは家が貧乏やったから小学生の頃、すでに新聞配達をしていたが、今は法律で例え軽易な仕事であっても13歳未満の労働は禁じられとるから、それもできんようになっとる。
子供を働かせるというのが、ええことかどうかはワシには分からんが、この物語の主人公、ヘンリーのような少年が、この日本では育たんようになっとるのだけは確かやという気がする。
ワシ自身がそうやったように、子供の頃から、どんなに苦しくても創意工夫して切り抜けるということをいつも考えてきた人間は強い。
ワシにそれを考えさせるようになった原点は、その「新聞配達」にあったと確信しとる。
やったことのある人には分かるやろうが、タカが新聞配達くらいなものと言うても、これはこれで結構、奥の深い仕事やと思う。
記憶力もいれば、状況判断も必要や。もちろん、その体力と精神力、根気と使命感、それらのいずれが欠けても使い物にはならん。
何も考えんアホでは、まずできん仕事やさかいな。傍(はた)で考えるほど簡単なものやない。
暴論かも知れんが、今の日本の法律や仕組みは子供から夢と考える力を奪っている。
そんな気がしてならん。
子供を育てるというのは単に甘やかし守ることではなく、自身でどうするかを考えさせることが最も大事やと思うのやが、違うやろうか。
子供向けとはいえ、そういったことを考えさせてくれた実に示唆に富んだ、ええ本やったと思う。
その読み方次第では、大人にも十分に役立つ本であると思えるほどに。
参考ページ
注1.ゲンさんのお役立ち情報 その2 ロスでの新聞事情
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