新聞勧誘・拡張ショート・ショート・短編集
第5話 新聞奨学生マタやんの憂鬱
掲載日 2004.9. 5
これは、今から、7年ほど前の奈良県での話や。
ルルル、ルルル、ルルル……。
枕元の電話の呼び出し音で目が醒めた。
時計を見ると、まだ午前3時30分や。
代配か……。
ワシは、目を擦りながらその電話を取った。
代配というのは、販売所の配達人が何らかの事情で配達出来ん時に、急遽、その応援をする人間のことや。
ワシの本職は、言わずと知れた拡張員やけど、その代配を拡張員がする場合がある。
ワシはここへは、大阪の団から出向してた。
ここの販売所の所長に是非にと請われたということになっとるが、ワシは体裁のええ島流しやと思うとる。
ここに来るちょっと前、団の幹部で沖本という男がいとるんやが、ワシはこいつとあることで大喧嘩をした。
困った団長は、ワシを飛ばすことにしたちゅうわけや。
ここの所長は、代配が出来て、拡張の腕のええ人間をという希望やったと言う。
ワシは大阪でも、その代配をしとったから、団長にしたら渡りに船やったんやろ。
あのままやったら、ワシか、その沖本かどっちかが団から出て行く可能性が大やったからな。
その代配をすることになったのは、ちょっとしたワシの不注意から漏れた言葉が原因やった。
ワシは中学生の頃、アルバイトで新聞配達をしてた。そのことを言うと、その代配をやらされるようになったんや。
人間、何でもないようなことでも、いらんことを言うのは止めといた方がええ。
特に、この世界では、いらんことを言うて良うなった試しがない。
もっとも、代配は1回、2万円ほどになったから、悪い稼ぎやなかったがな。
「ゲンさん、すみません、また、お願いします」
販売所東部店のマタやんの声やった。
マタやんというのは、新聞奨学生として働きながら、大学に通うてる感心な若者や。
ここの販売所の中では一番、仕事が出来る男や。
所長も、その力を買うて、主任という地位につけとる。
3年勤めとるということもあるが、新聞奨学生としたら異例のことらしい。
マタやんはというと、そんな地位を喜んどるわけやない。どっちか言うと迷惑がってる。
ただでさえ、自分の時間がないのに、そのおかげで、学校を休むことも度々やと言う。何をしてるのか分からんと良うぼやいとる。
そらそやわな、販売所のオヤジか、えらいさんになろう思うて、新聞奨学生やっとるわけやないからな。
本来、新聞奨学生は大学へ行くための手段として働いとるにすぎんのや。
その先には、希望の職種につきたいという夢がある。
せやから、出来たら、こんな主任という地位は願い下げにして欲しいと思うが、マタやんにしたらそれを言い出すことが出来ん。
他の専業も大半が借金で縛られとるが、新聞奨学生はその比やない。
世の中には勉強したくても、家庭の事情で出来ん者もいてる。
事情の多くは金がないからや。
しかし、新聞奨学生制度ならその心配がいらん。
奨学金と給料で、親に負担かけることなくやれる。
入学金等も300万円程度ならほぼ無条件で貸し付けてくれる。
しかも、金利はない。返済も、月々の奨学金や給料から少しづつ返済すればええと言う。
せやから、ほとんどの奨学生はこの貸付金制度を利用しとる。
実は、これが、専業や拡張員と同じ縛りの役目になるんや。
ちょっと、気にいらんからと言うても、簡単に辞めるわけにはいかんさかいな。
辞めれば、貸付金はその1ヶ月以内に残金全額を返済せんとあかんシステムになっとるんや。
その保証人は、当然、親がなっとるから、まったなしの催促がそっちに行くことになる。
親に迷惑や負担をかけたくないからと選んだ制度が、その親の首を絞めることになりかねん。
せやから、ほとんどの奨学生は文句も言えんと仕事するしかないというわけや。
親孝行な子供ほど、その狭間で苦しむことになる。
マタやんも所長のすることに異を唱えることは出来んから、主任というやっかいな立場でも甘じて受けとるというわけや。
もっとも、所長にしたら、目をかけて取り立ててやっとるとなるんやがな。
ここで、ちょっと簡単に新聞奨学生制度について話す。
新聞奨学生制度は新聞社が設けている制度で大学、短大、専門学校、予備校といった高校卒業後の進路を自力で働きながら学費、生活費を得て学校に通うためのシステムということになっとる。
月々の給料や年2回の賞与の他、規定の奨学金も貰え、入学金等の学費の全額貸し付け、住居が無料とええことづくめやと言う。
これだけを見る限り、勤労学生のためだけにある制度のように見える。
しかし、新聞奨学生の実態は、そんな甘いもんやない。
新聞奨学生制度というのは、新聞業界の人材募集手段の一つとして運営されとるからや。
家庭の経済的事情等で学校に通いとうても通えん学生の救済という名目で、安定した雇用を確保しようというのがその目的や。
そんな学生らを呼び込む甘い言葉が、パンフレットやホームページには踊っとる。
「自分の夢の実現のために新聞奨学生制度があります」
「働く君を応援するシステム」
「親に頼らず、自力で進学したい。新聞奨学会は、そんなあなたを応援します」等々
どんなにうまいことを書いてあっても、これは求人広告と同じなわけや。
新聞業界は雇用確保が目的である以上、必要なのは労働力なんやからな。
学業中心に考える学生とは根本的な部分で最初から食い違う。
そうは言うても、この制度が無一文の状態の人間でも学校に通える唯一の手段やと言うことも間違いない。
この制度を上手く利用すれば、経済的な事情で諦めていた進学が、可能になるんやからな。
参考までに、その新聞奨学生になるための手順を言うとく。
@パンレットやホームページに記載されている希望の新聞社へ資料請求をする。毎年、7月〜9月に募集案内広告が出る。
A資料の送付と共に説明会への案内がある。そこに行くと「参事」と呼ばれる各県、各地区の募集事務や相談役となっている人間との面接がある。
この「参事」というのは、奨学会に属している委託職員のような人間やから、配属される販売所の仕事内容はほとんど知らん。
ほとんど知らんのに「仕事は誰でも出来ることですし、何も心配することはないですよ。みんないい人ばかりですから大丈夫ですよ」と無責任なことを言う。
実際、何があろうとその参事には責任はない。それに、まさか面接の場で「もしかしたら、えらい目に遭うかも知れませんよ」とは言えんから、しゃあないんやがな。
ほとんどの奨学生はそれ以上に何も知らんから、この参事の言うままに手続きを進めてしまうことになる。
B新聞奨学制度を適用している学校の中で志望校が決まったら、奨学生の申し込み手続に入る。
この時、志望校に合格するかどうかは問題やない。進学希望校の試験の合否が決まってから申し込むというのは事実上、無理や。
奨学制度の募集は選抜式やなく、受付順やから、その時分には募集枠はなくなっとることが多い。どこの人材募集でも定員に成れば打ち切るというのと同じや。
C その後、研修会というものがあり、ここでも、先の参事が中心になって、仕事の説明をするが、説明する本人も販売所の仕事内容は分かってへんから、ええ加減な説明しか出来んわな。
極端に言うたら、新聞配達をするということくらいしか分からん人間もおると言うことや。集金やちょっとした、営業やったら誰でも出来ると思うとる。
こんなんやったら、ワシら拡張員に説明させた方がましやで。
ワシらは、その店の善し悪しの程度はすぐ分かるからな。
もっとも、ワシやったら、悪い店があったら、こんなとこは止めとき、て言うやろうから、参事の仕事にはならんわな。
参事の仕事は、いかに上手いこと言うて、学生をその気にさせ販売所で働かせるかやからな。
ワシが、今までに出入りした販売所の数は悠に100以上はある。
その中には、ええ店も悪い店もいろいろある。
ワシは、初めて行った店でも、その店がしっかりした所かええ加減な所かは、ほぼ一目で分かる。
まず、店舗やが、これは小綺麗なビルのような建物の所から小汚いプレハブ造りの所までいろいろとある。
仕事するなら、小綺麗な所の方がええ。経済的な面もやが、客商売に気を遣う所は総体的に小綺麗や。こういう所は他の面でもきっちりしとる所が多い。
店回りの清掃の程度、配達用の単車の手入れ具合、車両や単車の停め方、店内の整理整頓、外来者への応対等をちゃんとしとる所は、その所長の人柄、従業員の質もまず問題ない。
パンフレットや研修先の店は大体が、こんな感じのところやな。
研修でこういう店を見せられれば、大抵の者は安心する。
せやけど、これと正反対の店も結構多いから気を付けた方がええ。
特に、一目でそれと判断出来るのは、外なら単車の手入れ具合や整理の仕方なんかやな。
パンクした単車が放置されたままになっていたり、ヘルメットをバックミラーにぶら下げてるとか、キーが差し込んだままちゅうような店は間違いなくルーズな店や。
店外も、古紙や残紙を放置したままとか、チラシの残りがそこらにあるような、誰が見ても汚い、散らかってると感じる店もあんまり良うない。
こういう所は、所長もやが、従業員の質も悪い。
配属先が分かって、事前に調べられるなら、良う考えた方がええ。
働く前なら、取りやめるのも可能やからな。
せやけど、この時点では、他の進路を考えとらん場合がほとんどやから、大抵はそのまま働くことになる者の方が多いわな。
D 志望校が決定し、学費の借り受けを済ませ、配属先が分かり、そこで働くことが決まったら、後はもう腹をくくるしかない。
大体、こんなところが新聞奨学生になるまでの流れやな。
しかし、配属される販売所次第で、天国にも地獄にもなるという要素を孕んどるというのも、何か理不尽な気もするがな。
特に、パンフレットなんかの甘い言葉を真に受けとると、その思いとのギャップに苦しまなあかんことになる。
パンフレットの謳い文句と実際との違いは、どんなことでもあるからな。
他のことなら、引き返せるということもあるが、入学金などの金を借りてしまった後ではどうにもならん。
例え、どんなにえげつない所だろうと、卒業するまでは我慢せなあかんのや。
自分が、その地獄のような生活を堪えきれんで辞めて放り出せば、今度は親が、借金地獄に堕ちることも考えなあかんからな。
そんな、販売所で苦しんどる奨学生の中には、販売所に勤めることを入所、辞めることを出所と言って揶揄しとる者もおる。
檻のない監獄というわけや。
晴れて卒業出来て出所ということになれば、ええ経験やったと思えるが、途中でその辛さに堪えられんと脱獄したら、挫折感と共に借金返済という悲惨な現実が待つことになる。
そして、ここの販売所はお世辞にでもええとことは言えんから、マタやんも愚痴の一つも出るちゅうもんや。
それでも、マタやんは賢いから、その愚痴はワシにしか言うとらんけどな。
外から見とる拡張員のワシでも、そう思う気持ちは良う分かる。
しかし、世の中、どんな世界にでも、ええ所もあれば悪い所もある。
ワシら拡張員も、それは同じや。
所属する団の善し悪しによって格段の違いがある。
せやけど、悲しいかな、そこに飛び込んで初めて、そのことに気づくもんなんや。
事前に分かれば苦労はない。
マタやんもここに配属されて、すぐ最悪な店やと分かったらしいが、どうにもならんかったと言う。
せやから、そんな新聞奨学生のマタやんに主任を任せなあかんほど、ここの販売所の人材不足は深刻やということなんや。
他に専業でええ人材がおらんのや。
もっとも、専業で質のええ人間と言うのも少ないがな。
世間では、新聞販売店の従業員の方が、拡張員より質がええと思うてる者が多いようやが、ワシに言わせれば、五十歩百歩や。
拡張員になる者も、専業になる者も、そのきっかけは似たようなもんやからな。
どっちも、切羽詰まってスポーツ紙の求人広告で来とる奴ばかりや。
拡張員にしたら、その落ちこぼれが専業やと思うてる。
実際、拡張員経由の専業も多いさかいな。
逆に専業からの拡張員転身というのはないこともないが、あまり聞かん。
専業の多くは、拡張員のことを良う知ってて嫌うとるから、当然やけどな。
販売所の組織にちょっと触れとくと、所長というのがトップで経営者や。店長というのは大抵、雇われが多い。その下に、主任がいとる。
この店長クラスのしっかりしとる販売所は、いろんな面で問題ない。
言うまでもなく、その上の所長ですべてが決まるけどな。どんな組織でも、そのトップ次第や。
ワシの見る限り、ここの販売所は、そういう意味では、ええ方に機能しとるとは言えんと思う。
まあ、最悪とまではいかんがな。
ここより、酷い所はざらにある。
それでも、店舗を5つも構えとるのやから、所長の経営手腕はあるのやろ。
それにしても、この東部店は、代配が多い。
この一週間で4日めや。
ワシとしても、あんまり続くようやと本業に差し支える。
まあ、その本業も今はここの専拡みたいになっとるから、ええようなもんやけどな。
専拡というのは、その販売所が直接雇うてる、フリーの拡張員のことや。
その販売所だけの拡張をする。
傍から見たら、専業のように見えるが、拡張以外の販売所の仕事は一切せん。
「お早うございます。今日は7区なんでお願いします」
マタやんは、いつもの人なつっこい笑顔で、そう言うた。
「店長は?」
ワシが、そう訊くと、マタやんは首を横に振る。
まだ、寝てると言う意味や。
どうでも、ええけどここの店長の長岡という男は仕事のせん奴や。
普通の販売所の店長なら、代配を呼ぶ前に自分で配達する。
しかも、新聞屋の店長で今の時間まで寝とったら、へたしたら馘首やで。
せやけど、こいつは所長の一人娘と結婚しとる。
入り婿みたいになっとるわけや。
店員の頃から仕事は出来なんだけど、そっちの面では一流らしい。
ここの所長も、この店長の長岡を次期、所長にしようということで、それなりの帝王学を学ばせとるちゅうことや。
こういう販売所の帝王学ちゅうても、新聞社の担当の接待とか、その新聞社の地域の所長連中との付き合いが主やけどな。
せやから、店の仕事が疎かになっても、文句を言われんから、好き放題というわけや。
そのせいかどうか、まだ30前やというのに、腹だけは重役級や。
「ゲンさん、店長からの伝言で、今日の午前10時に店の事務所に来て欲しいと言うことなんで、よろしくお願いします」
「分かった」
普通、拡張員は、必ず一度は入店してから、拡張を始めるんやが、ここでは、ワシは、ほぼ自由や。好きな時間に拡張する。放っといたら、いつ店に現れるか分からんからな。
それで、念を押しとるというわけや。
いつものことやけど、マタやんはワシのために万全の準備をしてくれとる。
当然のように、新聞を単車にくくりつけてる。
順路帳にも、白い門扉の家とか、赤いポストの家という具合に、目印になる項目をわざわざ、ワシのために書き込んでくれてるのや。
ほんまに良う出来た子や。
配達が終わったのは、朝の6時過ぎやった。
それから、帰って夢の続きや。
ワシのねぐらは、販売所が用意してるマンションや。歩いて5分ほどの所にある。
ワシは一眠りしてから、午前10時ちょっと前、店に行った。
事務所の中には、他の店から主任クラスの従業員が5人ほど集まっていた。
「おやっさんの具合はどうや?」
ワシは、事務所に入るなり、そう店長の長岡に訊いた。
所長が、3日前から胃の病気とかで入院してたからや。
「おおきに。大したことはないみたいや。せやけど、検査入院が必要やとかで、2週間くらいはかかるて医者が言うてた」
そう長岡が答えた。
暫く沈黙が続いた後、長岡は、ワシが椅子に座るのを待ってから、切り出した。
「ゲンさんが来たから、丁度ええ。今から緊急ミーティングを始める。実は……」
長岡が言うには、3日前、ここの北部店のバンクに、N販売所のA紙の拡張員が、拡張に入り、客を取ったと言う。
ここの販売所とN販売所には、協定があって、お互いのバンク内では拡張せんという約束になっとった。
しかし、その約束をN販売所が一方的に破って、こっちのバンクを荒らした。
そう長岡は力説した。
せやけど、そのいきさつは、ワシも知っとるが、長岡が言うほど、一方的にN販売所が悪いわけやない。
ここの販売所とN販売所は隣接しとるが、バンクの境界は地図の上ではっきりとした線引きがあるわけやなかった。
境界は、お互い暗黙の了解があって、今までは、それほど揉めることはなかった。
ところが、問題の場所は、最近になって宅地造成する業者が現れ、住宅が建ち始めた。
それが、ほぼ境界上や。
それまでは、ただの空き地やったから、どちらのバンクとも言えん状態やったわけや。
その住宅の入居者に、ここの販売所がいち早く目を付けて、拡張した。現在、10軒ある入居者のうち、8軒はここの販売所のS紙の購読客や。
あと、2軒は、契約寸前やったと言う。
それを、N販売所のA紙の拡張員が強引に契約して、協定を破ったというのが、長岡の言い分や。
ここまで、聞いていて、おかしいと気づいたと思うが、S紙とA紙で、どうしてバンクの境界の協定を結ぶ必要があるのかということや。
本来なら、客の取り合いは普通に起きる。
せやけど、N販売所はA紙だけやのうて、すべての新聞を販売しとる販売所なんや。こういうの合配店という。
奈良のような地方には、こういう販売所は珍しいない。
普通の販売所は、その新聞社専属やから、新聞社の意向は絶対的なもんや。
せやけど、N販売所のような所は違う。
どこの新聞社に対しても、売ってやるという姿勢やから、強い。
当然、S新聞社に対しても、売ってやるから、他のS紙の販売所にもバンクの侵害はするなと言う。
S新聞社は、その意向を重視し、隣接のS紙の販売所に働きかけ、協定を結んでるというわけや。
その協定を破ったと思うたN販売所はメインの販売紙であるA新聞の拡張員を呼び寄せ、その地域に送り込んで、そういうことになった。
ここの所長は、N販売所の所長に、そのことを抗議したが、逆に、これから2度と、その地域には入るなと言われた。
それを聞いた所長は、頭に来て急に気分が悪くなり、入院する羽目になってしもうたというわけや。
「これは戦争や」
長岡はいきりたっていた。
「目には目をで行く。やられたら、やり返さな生きて行けん」
販売店同士の拡張競争に一旦火がついたら、引いた方が負けになるし、業界の笑い者になる。
その辺の考え方はヤクザの縄張り争いと同じや。
「今日、集まって貰うたのは、このメンバーで、今から、その報復に、H地区に拡張をかけようと思うてるからや」
「H地区?」
ワシはオウム返しにそう訊いた。
H地区というのは、この辺りの同○地区の一つで、N販売所のバンク内にある。
「ああ、オヤジと相談して決めた」
「そういう所は、いろんな問題が起こるかも知れへんのやで」
事実、ワシは他の販売所で、その手の住人とのトラブルを良う聞いていた。
ワシは、今回の背景を考えると、嫌な予感がしてならんかった。
結果的に、その予感は的中してしもうたがな。
「責任は、オレとオヤジで持つから、安心してくれ」
長岡は、力強くそう言い切った。
長岡の安心してくれは充てにならんが、所長が責任持つということなら従うしかない。
特に、拡張員は、入店する販売所の所長の指示には逆らえん。
拡張地域も指定されたら、そこに行くしかない。
そんな場合、他でのカードは無効になるからや。
「拡張の指揮は、ゲンさんに頼む」
「分かった」
この販売所の主任クラスが集まっとるから、精鋭揃いのような感じがするかも知れんが、拡張に関したら、どいつも皆、駆け出し同然や。
専業の中にも、たまに、これはと思う奴もおらんこともないが、ほとんどは素人のご用聞き営業の者ばかりや。
プロは、ワシだけやから、やらなしゃあないやろ。
「拡材はこれを使うてくれ」
長岡は、有名デパートの商品券の束を机の上に投げ出した。
「1年縛り、1万円の商品券と3Sで行く」
3Sというのは、3ヶ月間、購読無料のことや。Sというのは、サービスの略語や。
今は、こんな拡材を渡す所は、ほとんどないと思うが、この頃は、これが、そう特別なことやなかった。
特に、この地域は拡張競争が盛んになりつつあった地域やから、尚更や。
この後、暫くしてから「拡張の歴史」でも紹介した、本格的な拡張合戦の幕開けとなるんやけどな。
ワシは、この作戦自体は成功するやろうと思うた。
N販売所のバンク内の顧客は、拡材というものを知らん。
拡張員すら、普段はおらんから、客にサービスするための拡材なんか必要のない所や。
すべての新聞の販売をしとるから、競争せんでもええわな。
購読申し込みは客の方から、好きな新聞を指定するだけや。
サービスと呼べるようなものは、集金の時、ゴミ袋を渡すくらいやと言う。
拡張員がおらんということは、新聞セールス自体を知らんということやから、嫌がられることも少ないやろと思う。
加えて、そこの連中にしたら、破格の条件を提示されるわけやから、食いつく可能性は高い。
ただ、難があるとすれば、A紙の愛好者の多いことや。
奈良県という土地柄は昔から、A新聞の購読者が多いことで有名や。
また、この辺りは金持ちも多く、少々の拡材では、なびくことはないかも知れん。
せやけど、拡張というもんは、10割を考えることは出来ん仕事や。
成功ラインを1割としても、かなりな数になるから、それで十分やと思う。
それから、30分後、ワシと主任クラスの5人の計6人が現場に到着した。
その中に、マタやんもいてた。
ワシは、このH地区を6等分した住宅詳細地図をそれぞれに渡し、鉄砲で廻るように指示して解散させた。
鉄砲というのは、軒並み叩くことや。情報やデータのない地域を無差別に勧誘する。
当然、中には同じS紙の購読客に当たることもあるけど、そういう所は、勧誘したらあかん。
いくら、敵対関係になったと言うても、同じ新聞を取り合いしたら、仁義も何もあったもんやない。現読勧誘はどこでも、どんな状況でもご法度や。
「マタやん、学校は?」と、ワシは、マタやんを呼び止めてそう訊いた。
「今日も、休みます」
「昨日も休んでるんやろ。そんなんで大丈夫か?」
「仕方ないですよ」
「何なら、ワシが店長に言うたろか?」
「いいですよ。ゲンさんにいらんこと言うなて、後で怒られるのがオチですから」
「そうか……」
ワシは、このマタやんが、気になってしゃあない。
普段、いろんな面で良うしてくれるちゅうのもあるけど、新聞奨学生で頑張っとる姿があまりにも、健気やからや。
マタやんには、母親しかおらん。その母親は、マタやんを大学にやる金がないと、泣いて詫びたと言う。
マタやんには、高校生の妹と中学生の弟がおる。母親が、どんな思いをして、自分たちを育ててくれたか、良う分かってる。そんな母親を責める子供はどこにもおらん。
マタやんは、高校卒業したら、取りあえず働く気やった。ちょっとでも、母親を助けたかった。
その、母親が、ある日、どこで聞いて来たのか知らんが、新聞奨学生の話を持って来た。
母親の必死の説得に負けて、新聞奨学生になったとワシだけに打ち明けたことがあった。
せやから、少々、何があろうと、頑張るしかない。
因みに、マタやんは、少ない給料のうちから、毎月、母親に送金してると言う。
ワシは、そんな話を聞くと泣けてくる。
ワシも家が貧乏で、高校は働きながら、定時制に4年間通うて卒業した。
新聞奨学生やないけど、その苦労は多少なりとも分かるつもりや。
それに、今は、拡張員やから、新聞屋の苦労も良う分かる。
「マタやん、今日のトークを考えてるか?」
「別に、特別には考えてませんけど……」
「拡張の仕事は、その時、その状況に応じたトークを用意する必要があるんや」
こんなことを、マタやんに教えても、将来何の役にも立たんやろうけど、せめて、この場だけでも、ちょっとでもカードを上げさせてやりたかった。
「ごめん、下さい。新聞屋です。今日は、特別にS紙のキャンペーンの紹介をさせて頂きに来ました。本日、このH地区の方だけに特別に、この1万円の商品券と3ヶ月の新聞代無料サービスをしています。いえ、何も、ずっとS紙を取る必要ないんですよ。1年間だけでいいんです」
商品券などの現物を、確認して欲しいと、手渡しながら言うとより効果的や。
まず、これで、どこか1軒目を上げる。すると、こういう地域では後は芋蔓式に上がり易い。
「お向かいの○○さんも、喜んで、1年間だけ、S紙に変更して頂きました。今しかないサービスですし、お得ですよ」
後は、上がれば上がるほど、人数を増やせばええ。3人以上になったら、皆さんという言葉に置き代える。
営業では、この皆さんという言葉はかなり説得力を持つ言葉なんや。
具体的に、誰かと聞かれれば、その名を上げればええ。
名前を聞く人間はほとんど契約出来る。
もちろん、トークだけで上がるもんやない。
客をその気にさせる雰囲気も作らなあかん。基本的には、明るく笑顔で接するように心がけることや。
こう教えたのが、効を奏したのか、マタやんは、この日、12本のカードを上げた。販売所の従業員にしたら、大したもんや。
しかも、マタやんは、午後2時から3時半頃まで、夕刊の配達で抜けとる。
それは、他の主任連中も一緒やがな。
マタやんの何とも憎めんキャラクターも大きな要因の一つやろと思う。
残り4人の主任の合計が23本や。
ワシはと言うと、28本、上がった。
せやけど、ワシにしたら、こんなのは自慢にもならん。
ほぼ、入れ食い状態や。道1本だけでこれやからな。
訪問したのが、40軒、その内、留守が7軒、断られたのは僅か5軒だけやった。
総数63本というのは、予想以上の戦果や。
店長も明日は、もっと、動員をかけると、その戦果に舞い上がっとった。
好事魔多しと言うが、そんな戦勝気分は、僅か1日で吹き飛んでしもうた。
翌日、午前10時に店の事務所に行くと、店長の長岡が何や難しい顔をしとった。
「実はな、ゲンさん……」
今日の朝、9時にS新聞社の担当から電話が入った。
N販売店のH地区の拡張から手を引けという指令や。
その代わり、例の新興住宅地はここの販売所のバンクと認めると言う。
昨日の、カードの客は戻さなあかんが、かかった拡材や拡張料はN販売所で払うということで、手を打ったということや。
長岡も、独断で決められんから、病院の所長に指示を仰いだら、そうしろということやったと言う。
S新聞社からの要請やったら、蹴るわけにはいかんからな。
それに、新興住宅のバンクを認める言うのは、販売所にしたら、顔も立つことになる。
昨日、拡張した家の中に、N販売所と懇意の客がおったらしい。
その人間の知らせで、こちらから、H地区の拡張に入ったことが分かった。
驚いたNの所長が、S新聞社に泣きついたということや。
「それで、相談なんやがな、昨日の客に断り入れてもらいたいんや。ここの販売所からは配達は出来んようになったからて」
「カードはそのままやな。配達所の変更を言うだけなんやな」
ワシは、そう長岡に念を押した。
何ぼ、大人しいワシでも、カードを潰されたら、けつ捲るつもりやった。
拡張員にとって、カード料もやが、上げた実績も重要なんや。
「そうや」
「今日は、仕事にならんな。ワシをそんなことに使うたら、高うつくで」
ワシは、精一杯の皮肉を込めて言うた。
今日も、昨日の続きで、さあ、上げ捲ったるでと勢い込んで来たのにこれや。
力抜けるでほんま。
「すまん、ゲンさん、この埋め合わせは必ずするから」
もう、これ以上、長岡に何を言うてもしゃあない。
ワシは昨日のメンバーを引きつれて、現場に向かった。
「昨日、自分の上げた客だけ、断り入れたら帰ってええで」
ワシは、主任連中にそう言うた。
ワシの客は、自分で断りを入れる。
それが、客に対する礼儀や。
それに、ワシ以外やったら、揉めたときややこしいことになるからな。
ところが、そのややこしいことが、こともあろうにマタやんに起こってしもうた。
結局、ワシが、全部の客に断りを入れて店に帰ったのは、午後4時過ぎやった。
店に帰ると何か様子が妙やった。
マタやんが、いつもの元気がのうて、しょぼんとしてうなだれとった。
何かあったというのが、まる分かりや。
「どないしたんや?」
「ゲンさん、僕、もう嫌や……ここでやってく自信があらへん」
マタやんにしたら、珍しいほどの弱音を吐く。
こんな、様子のマタやんを見るのは初めてや。
何か、よほどのことがあったな。
マタやんも、配達所の変更の断りを言うて回ってた。
ほとんどの家は、何も言うこともなく了解してくれた。
配達所がどこであろうと、問題ない。
ただ、A紙からS紙に変更して、配達所がもとのN販売所やけど、問題ないのかという客も中にはいとったが、話がついてると言えば、そうかとなる。
しかし、マタやんの客で問題を抱えとるケースがあった。
マタやんは同じ調子で、その客に断りを入れると烈火の如く怒り出した。
その客は、神田と言うて、その地域の顔役的存在の人間やった。
仕事は、古物品専門の露天商や。
分かり易く言えば、テキヤ。
傍目からは、ヤクザに見える。
実際、その仕事には本物のヤクザも多い。
そんな人間から、怒鳴り散らされるんやから、真面目な新聞奨学生のマタやんはびっくりするし、恐ろしかったやろうと思う。
「お前では話にならん。店長を呼んで来い。今日中に、来んかったら、お前とこの店に行くからな。ワシを本気で怒らせるなと、そう店長に言うとけ」
そう、恫喝されて、マタやんは生きた心地もせんと、店に飛んで帰り、そのことを店長の長岡に伝えた。
店長は、神田の名前を聞くと、急に逃げ腰になった。
「その客は、お前の客やから、お前がもう一度行って断って来い。せや、この商品券を2万円分ほど余分に渡したら、何とかなるやろ」
店長は、そう言い残すと、あたふたと車で出かけたと言う。
「僕、もうあんなところに行くの嫌や。僕一人で行ったら、殺されますよ。あそこへ行くんやったら、仕事を辞める……」
マタやんは半泣き状態やった。
「マタやんは、何も心配せんでも、ワシと店長で行く。この、仕事の責任者はワシやからな」
しゃあないなと思うた。
ワシは、何でか良う分からんが、こういう揉め事に巻き込まれることが多い。
しかも、何の因果か、ワシはこういう揉め事は嫌いやないし、慣れとる。
拡張員やから、慣れとるということやない。
拡張員を始める前から、そうやったからな。
ワシの人生は、揉め事とトラブルのオンパレードやから、こういうことには、半分、麻痺しとる。
ワシは、その足で、所長が入院しとる病院に行った。
何をするにしても、所長に話しを通しとかんとあかんと思うたからや。
ワシが、病室に入ると、店長の長岡がいとった。
「所長、体の方、どないですか」
「おおきに。ただの検査入院やから、大したこっちゃない」
「話は?」
「今、大体、聞いた……」
所長の表情も暗い。どうやら、相手の神田という人間は、相当な男らしい。
「マタやんは、もう一回、行ったんやろか」
長岡が、口を挟んだ。
「ワシが止めた。どうしても、行かなあかんのやったら、ワシが行く。責任者はワシやからな」
「そ、そうか、ゲンさんが行って来れるんか」
「店長、あんたも一緒やで」
「えっ。ワシ、ワシはええ。遠慮……」
「こらっ!!ワレ、何、逃げとんねん。オノレは店長やろ。昨日、何があっても責任とるて啖呵きったんとちゃうんかい」
いきなりの、怒声に長岡は完全にびびってた。
普段、温厚なワシの口から、こんな言葉が飛び出すとは思うてもなかったはずや。
ワシも、よほどのことやなかったら、これほど怒ったりはせん。
「長岡、ゲンさんについて行け、せやけど、あの神田という男はな……」
所長がゆっくり話始めた。
神田というのは、あの辺り一帯の顔役で、テキヤの元締めやと言う。
いろいろと逸話のある男のようや。
昔、ヤクザを何人も殺したとか、神田を怒らせて生駒山に何人埋まっとるか分からんというよう類の噂がかなりあるらしい。
もちろん、どこまで本当かは怪しいがな。
こういう、噂の尾鰭ちゅうのは何ぼでも増えていくさかいな。
しかし、危険な男やというのは間違いないようや。
ワシも、所長の話を聞いているうちに、ちょっと、ええ格好して、早まったかなと思うたが、一度、口にしたことやから、後には引けん。
長岡が逃げ腰になるのは良う分かる。
せやけど、まだ、学生のマタやんに尻を拭かせるというのは許せることやない。
「あのH地区には、その神田がいてるということは知らんかったんですか」
「知らんかった、確か、家は、M地区やったと思うてたんや」
「でも、あの地区なら、何か問題が起きそうやとは考えんかったんですか」
「欲に目のない奴が多いし、損をさせるんやないから、心配ないと思うたんや。他の所より食いつく可能性が大きいから、効果が上がると考えたしな」
「そうですか。大体、分かりました」
「ゲンさん、大丈夫か?」
「ワシは、こういうトラブルは慣れとりますから。それより、どういう結論が出ても、ワシに一任しますか? 場合によったら、金がかかるかも知れませんけど」
「任す。金で解決つくなら、それに越したことはない」
「それじゃ、ワシをその神田の前だけでも、所長代理ということにでもして貰えませんか。ああいう、連中はそういう肩書きに拘るんでね。まさか、ワシが一介の拡張員やて言うわけにもいかんでしょ」
「分かった。そうしてくれ」
「ところで、何でその神田という男は、そこまで怒っとるか分かりませんか」
「良う分からんが、仲が悪いというのは聞いたことがある」
N販売所の所長も、あの辺りではもう一方の雄やと言うことや。
もっとも、こっちは暴力的というよりも、権力派や。身内に、大物国会議員がおると言うからな。
「店長に、聞きたいんやけど、何でマタやんに、そんなとこ行かそうと思うたんや。そんなもん、行ってもあかんことくらい分かるやろ。へたしたら、もっと、話がややこしく拗(こじ)れるで」
「それは、ワシの普段の指示のせいや」
所長が、そう言うた。
「どういうことです?」
「ワシはあの子に、将来、学校を卒業したら店長をやらそうと思うてたんや。せやから、こいつに言うて、今の内から、責任ある立場で行動させろと指示しとったんや」
「マタやんは、そのことを……」
「良う、考えときますとしか言わなんだけど、ワシは受けてくれると思うとるんや」
そこまで、マタやんを買うとるというのは分かる。
他の専業見てたら、頼りになりそうな奴はおらんからな。
ワシが所長でも同じことを考えたかも知れん。
せやけど、もともと、新聞奨学生の方が人材的に優秀な人間がいてて当たり前や。
逆境に負けんと向学心に燃えて自分の目標をしっかり持っとる者ばかりやからな。
食い詰めて、専業に来た人間とでは、その質の違いは歴然や。
そら、中には、例外もおるが、ここでは、その例外が見当たらん。
「店長、行こか」
「は、はい……」
屠殺場に引き出される牛か豚のような足取りや。
神田の家は、まだ新築やった。
純和風の檜造りのでかい家や。
広い応接間に通された。
間もなく、神田が現れた。
五十過ぎの恰幅のええ男や。貫禄、迫力とも申し分ない。
ワシは簡単な自己紹介をしてから、切り出した。
「この度は、私どもの勝手な都合で、ご迷惑をおかけしまして、真に申し訳ありませんでした」
「いや、私の方こそ、あの若い兄さんを叱りつけて、大人げない真似をしたと反省しとるんですよ」
神田は穏やかそうな表情で応対した。
ワシは即座に、こいつは想像以上にやっかいな相手やと直感した。
これやったら、喚き散らす相手の方があしらい易い。
『笑裏蔵刀』という言葉がある。
笑いの内に刀をかくすという意味や。
分かり易く言えば、にっこり笑って人を斬るということやな。用心せなあかん人間の例えに使う。
この神田が、正に、それや。
「失礼ですが、N販売所の方とは、何か問題でも、お有りなんですか」
こういう相手の場合、まず相手の言い分を聞き出すようにせなあかん。
こっちの都合や言い分を先に言わん方がええ。
クレーム客には、つい言い訳してしまいがちやが、それやと話を拗らせることになる。
へたすると、お前ん所の都合で何で、こっちが迷惑かけられなあかんねや、となるからや。
特に今回のように、新聞の拡張競争の是非なんか、客には何の関係もないことやからな。
「聞いてくれるか……」
神田の話すところによると、新聞は今まで、N販売所しかないから、当然のようにそこで購読してた。
神田は古物店もしてて、そこで、在庫の処理を兼ねて安売りをすることになった。
その折り込みチラシを作ってN販売所に持ち込んだ。
それが、何回か続いた。
いつものように、出来たチラシを持って、N販売所に行くと、その日は古紙回収のトラックが止まっていた。
何気なくその荷台を覗くと、今まで、作ったチラシが古紙回収のトラックに積まれとるやないか。
それも、数百枚の残りとかいう半端なもんやない。
紐の切ってない、1000枚単位のくくりまであったと言う。
神田は瞬間的に頭に来た。
「このガキ、チラシ代だけ取って新聞に入れんと、そのチラシを捨てさらしてからに」と思うて、そこで暴れた。
N販売所の所長は、「そんなことはない、ちゃんと頼まれたチラシは入れてる」と必死で説明するが、「それなら何で入れたはずのチラシがそこにあるんや、お前とこが別に印刷でもしたのか」ちゅうて、取り合わん。
ワシら、新聞屋には、このからくりは簡単に理解出来るが、一般客には何ぼ説明しても分かることやない。
例え、分かっても、誰も仕方ないですね、とは思わん。
押し紙というのがある。
これは新聞社が年間販売目標を決めて、新聞販売店にその目標部数分の割り当て部数を押し付けることを言う。
新聞が売れていようと売れてなかろうと、関係なく販売所に新聞を買わす。
せやから、売り上げ実部数と購入部数が違うのは、新聞販売店としては普通のことや。
そして、販売所の多くは、この購入部数をもって、公表部数にしとるんや。
つまり、売り上げ実部数が1000部で、購入部数が1500部やったとしたら、その店は1500部の販売店ということになるというわけや。
これを利用して折り込みチラシ代金を取っとる店がほとんどなんや。
購入部数が1500部の店は、折り込みチラシ希望の業者には、1500枚のチラシを納入させて、そのチラシ代金を取る。
しかし、売り上げ実部数が1000部しかないから、500部分のチラシは当然、余るということになる。
それが、N販売所の場合は、公表30000部ということやから、実部数との差は少なく見ても3000部はあるはずや。1日、3000枚のチラシは不要になる。それと同じだけの新聞も残紙として余る。
半端な量やない。どんな大きな店でも、それだけの量を、そう何日も溜めるわけにはいかんから、定期的に古紙回収業者を呼んで、引き取らす。
その現場を、神田に押さえられたということや。
神田でなくても、誰でも怒る。
量が量だけに、チラシを入れてないと思われてもしゃあない。
販売店とすれば、これは普通にあることや。
どこの店でも、やっている。
これに対して、ほとんどの販売所は、それほど罪悪感も持っとらん。
ただ、そのチラシを裸同然に積み込むというのは拙い。
チラシを依頼した業者に見られることも考えとかんとあかん。
普通、余ったチラシは残紙の新聞紙に包んで、包装機で結束する。
こうしとけば、残紙を積み込むだけのように見えるから、こんな不細工なことにならんで済む。
ワシらには、こういうことは普通のことやとしても、この場合、神田には、そんなことを言うわけにはいかん。
「それは、酷いですね」と、多少、白々しいが、言わなしゃあない。
「せやから、それ以後、Nからは新聞取ってなかったんや。そこへ、昨日、あんたとこの兄さんが、新聞の勧誘に来たから、喜んだのにどうなってるんや。ワシんとこは、Nからの新聞はいらんで」
「実は、そのN販売所から横槍が入りまして、ご存知のように、あそこはバックに政界の有力者がついてますんで、うちみたいな弱小販売所じゃ、どうにもならんのですよ」
ワシは、この際、N販売所に悪者になって貰うことにした。それに、もとを糺(ただ)せば、すべてN販売所の不手際が原因やから、しゃあないやろ。
「何を!!Nの差し金で新聞配られんちゅうのんかい。ワシがNに掛け合うたろか」
「ちょっと、待って下さい。今、良い方法、考えてみますんで……」
ワシは、ちょっと、考える素振りをした。
ワシなりに、ええ方法を思いついたんやが、こういう場合は少し、もったいつけて話した方が効果ある。
いかにも、苦渋の選択の末に考えついた方法やと、印象づけるんや。
「それで、うちへの新聞の配達、どうなるんや」
「そのとき、新聞を止められたのは、神田さんだけですか」
ワシは、そんなはずはないやろと思うた。
「ワシが、止める言うたら、10人ほどNからの新聞止めた言うとったな」
神田はちょっと、得意げに言う。
どの世界にも、親分に追随する者はおるやろうとは思うた。
ワシの思うた通りや。
作戦は決まった。
また、ちょっとだけ、考える素振りをした後で言う。
「神田さん、分かりました。神田さんの所は、私共の方で、責任持って、配達しましょう。それと、新聞を止めて、困っておられる方も、出来たら教えて下さい」
「そうか、実はな、昨日、あんたとこの兄さんが来てから、うちの奴らに、他から新聞読めるでと言うてしもうとったんや。ええのか?」
「僕は、この件では、全権を任せられてますから、大丈夫です」
横で、店長の長岡が、何を言い出すんやというような目つきをしとる。
ほんまに、頭の巡りの悪い奴や。
「ここからは、ビジネスということになります。今、現在、その例の事件以降、新聞を止められた方で、どこの新聞も購読されていない人に限ってですが、その方々を紹介して頂いたら、お一人につき、5000円の紹介料を神田さんにお支払いします。但し、条件は、4年契約で、サービスはお一人20000円の商品券プラス毎年3ヶ月購読無料ということになります。それと、地域はここのHだけです」
「分かった。こっちは新聞読めるんやったら、願ってもないことや。それで、どないしたらええ?」
「その人たちのリストどのくらいで揃います?」
「明日中に、揃えとく」
「それでは、明日ということで、よろしくお願いします」
これで、話はまとまった。
終わってみれば、えらい簡単やったなと思うやろけど、これでも、ひとつ、ごてたら、どういう方向に行くか分からん。そういう、相手や。
こういうことの慣れてない者は真似せん方がええ。
結局、翌日、すべて片が付いた。
神田の家に行くと、あの応接間に十数人の人間が集まっとった。
その場で16件のカードが出来た。
そのカードの半分は、マタやんのカードになる。
これは、最初の神田のカードを上げとるのが、マタやんやからや。
ワシらの仁義やな。
後の半分は、クローザーちゅうことでワシや。
N販売所の方も、神田を含めて16人分だけ、こっちから配達、集金するということで話はついた。
N販売所には、これを認めな神田が怒るでと言えば、それまでや。
もちろん、これ以後は、一切、拡張はせんと約束しとる。
もっとも、N販売所もやっかい払いが出来たと喜んでるかも知れんけどな。
販売所の方も、出費覚悟やったのが、結局、儲かったことになる。
ワシが、神田に示した条件は、こっちで通常、使うてる拡材の約半分で済ましたことになるからや。
ちょっとした、数字のマジックや。2年契約での拡材分で4年縛ったんやからな。
神田への、謝礼も迷惑料と思えば、安いもんや。
参考までに、言うとくけど、神田のような男に、迷惑料ですと言うて、別に金を包むようなことをしたらあかん。
こういう男は、逆に怒る。
ワシは、ヤカラ言うて金せびっとんのと違うで、となるんや。
ヤカラというのは、無茶や理不尽なことを言う人間という意味や。
この手の人間は、あからさまに金をつきつけられると、安う見られたと思う。
こうなると、話は更にややこしい方へ行ってしもうて、どうにもならんようになる。
せやから、ワシはわざわざ、ビジネスやと強調して紹介料という形にしたんや。
もっとも、これですべて丸く収まったと思うて、安心したらあかん。
こういう客は、爆弾抱えとるのと一緒やから、不配なんかのトラブルを起こしたら大変や。
「ゲンさん、店長から聞きました。ほんとに助かりました。一時は本当に、この仕事辞めようと真剣に思うたんですから……。ゲンさん、僕のために無理したんやないですか」
「そんなことはない。ワシも儲かってるしな。気使うことないで。それに、ワシはこういうのは、好きなんや」
「好きなんですか」
苦難とかトラブル言うのは、一見、ピンチのようやけど、考えようによったらチャンスやラッキーになる。
そう思うてる内に、こういうことを楽しめるようになった。
「せや、マタやんのように、新聞奨学生で働きながら苦難に立ち向かうという姿勢は人から評価されるし、ええことや。苦難を求めるという考えも立派や。せやけど、一番ええのは、苦難を楽しむことやと、ワシは、いつもそう考えとるんや。」
「苦難を楽しむですか……僕には、とてもそんな心境は無理ですよ」
そう言うてる、マタやんの顔は笑うてた。
それから、暫くして、ワシは大阪に呼び戻された。
その後、2年ほどして、ここの販売所に来たが、マタやんは卒業していておらんかった。
どこかのコンピータ会社に就職したということや。
頑張ってるんやろな。
執拗な、所長の誘惑を振り切ったらしい。
実際、このまま、新聞店の店長に収まる新聞奨学生も結構いてるらしいからな。
もちろん、どちらの選択がええか、それは分からん。
せやけど、ここの販売所に限って言えば、店長を断って正解やったと思う。
それから、さらに2年後、所長が病気で死んだと聞かされた。
その1年後、販売所は改廃の憂き目を見たと言う。
今は、他の人間が経営しとる。
せやから、今は、この話を知ってる者も少ない。
それと、ワシが気にかけてもしゃあないことやが、あの神田に配達しとった新聞はどうなったんやろ。
今でも、誰か配っとるのかな。
了