メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第346回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2015. 1.23
■新聞業界異聞物語 その1 顧客管理はミサイル原潜用のミニコンで
「おじいちゃん、こっち、こっち。早う来な、おいて行くで」
「おい、こらっ、危ないから走るな」
「大丈夫やて」
そう言いながら、もうすぐ3歳になる悪童が、オサムの制止を無視して、近くのコンビニに向かって一目散に歩道を走り出した。
「ホンマにもう、ちょっとも目が離せんのやから」と愚痴りながら、オサムがその後を小走りで追う。
「昔はこの程度でバテることなんか、なかったのに」と自身の運動不足を呪いつつ。
「好きなお菓子を買ってやる」と、迂闊なことを言うてしもうたと後悔したが遅い。
それでもオサムは、久しぶりにやって来た孫を見ているだけで幸せだった。やんちゃな悪童だが、可愛くて堪らない。
「目に入れても痛くない」という陳腐な表現があるが、今のオサムには、その意味がよくわかる。
それにしても、こんなに落ち着いた刻が自身に訪れようとは、今までのオサムには考えられなかった。
オサムは27年勤めたD社を定年退職した。
たいていの新聞販売店に置いてある新聞の折り込みチラシをセットするための機械、「折り込み機」を作っている業界トップクラスの会社である。
オサムはそこで長年SE(システム・エンジニア)をしていた。最終肩書きは『新規ビジネスモデル推進担当重役』。
結果として、形の上では人が羨む出世を果たして引退したことになるわけやが、そこに至るまでは平坦な道程ではなかった。
人がやらない、尻込みするような無茶で無謀なことを何度も繰り返した。できそうもないことでも「できる」と平然と言ってのけた。そして、それをやり遂げた。
もっとも一流大学出ばかりの社員がいる会社に高卒で途中入社をしたわけやから、そうでもせな頭角を顕すことなど、とてもできんかったやろうがな。
4年ほど前、何気なくサイトに投稿したことでハカセと知り合い、2年前の9月に開催した『第1回「新聞拡張員ゲンさんの嘆き」オフサイト・セミナー』(注1.巻末参考ページ参照)で顔を合わせた。
知古とまでは言えないし、たった1日だけの短い出会いやったが、これほど強烈な印象を植え付けられた人物はオサムの人生を振り返っても少ない。
それはハカセも同じやった。生涯忘れることのない人物の一人になるだろうと、会ったその時に確信していた。
一流企業の重役だからということではない。ハカセは肩書きや権威で人を量るようなことはしない。
ハカセは誰にも言っていないし、言う必要もないから黙っているが、知古というだけなら政界の大物や芸能界の重鎮とも面識があり、酒を一緒に酌み交わしたこともある。
しかし、ハカセは、そんな人たちでも肩書きや権威があるから凄いとは思わない。圧倒されて萎縮することもない。
それなりの人物として敬意を払って付き合う。それだけのことや。
長く生きていると時折、一目見て短い会話を交わすだけで「ただ者やないな」と感じさせる人がいる。そんな人は、たいていが、そのとおりの人物だった場合が多い。
オサムの話を訊いて、ハカセは今更ながらに、そう実感したという。
その縁もあり、今年の1月になってオサムの退職を知ったハカセが、
私どもは新聞販売店向けの業務用機器やシステム、および業務ソフトの開発についての知識は皆無に近いので、それについて今後いろいろと教えて頂けないでしょうか。
新聞業界の方とお付き合いされておられた際、いろいろとご苦労された経験や業界の内部事情について知られたことなどが数多くおありだと考えますので、そういったご苦労話を教えて頂ければ助かります。
とメールをした。
オサムは快く承諾した。
ただ、それらについて語るには高校卒業時の頃にまで遡らなければならない。そのため話が長くなる。それでもよければと。
オサムは中学・高校とバレーボールのセッターをやっていて、近畿大会にも出場したことがあるスポーツ少年やった。
その大阪府立高校(進学校)を出て浪人中に運送会社でバイトしていたのやが、大学入試をあきらめ、そのまま就職した。
夕方まで、かなり非人間的でハードな肉体労働を続けた後、自らに筋トレを課し、夜は空手道場に通って身体を鍛えに鍛え抜いた。
おかげで、肉体的にも精神的にもタフになれた。小柄ながらグリーンベレーの隊員の肉体と比べても遜色ないと思えるほどやと、密かに自惚れてもいた。
オサムは実際に殴り合いの喧嘩をしたことはなかったが、梅田の盛り場で不良グループにからまれても、その筋肉隆々の肉体と自信ありげな気迫に気圧されてか、たいていの不良は黙って離れて行った。
オサムは、それでそれなりに満足していたのやが、高校時代の友人の大半が大学生だった頃、ある同窓生の女の子に「今のオサム君を見てると辛いわ」と、言われたことで少し落ち込み、「こういう仕事はいつまでも続けておられんな」と思い直すようになったという。
もう少しマシな仕事を探して就職せなあかんと。
そんな時、中学時代の同級生だったツヨシと会った。
「お前、今何やってるんや?」
「運送屋で肉体労働や」
「何でや。あんなええ進学校に通っていたのにか?」
「何も考えずにズルズルと続けていただけやが、そろそろ、ちゃんとした仕事を探そうかなとは思うてんのや」
「そうした方がええで」
その会話を交わして別れた数日後、母親から「ツヨシさんから電話があったわよ。明後日にツヨシさんの会社で途中入社の採用試験があるから受けたらどうかって」という話を聞かされた。
その会社というのは電子式卓上計算機を発売して急速に大きくなった、当時一部上場したばかりのK計算機株式会社やった。
現在では誰でも知っている有名な大企業や。もっとも、当時も一部上場企業やったから大企業には違いなかったが、新聞をあまり読んでいなかったオサムには、その意識はなく名前を知っている程度やった。
ツヨシは、当時オフコンのCE(カスタマー・エンジニア)としてK計算機株式会社の大阪支店に勤務していて、部署は違うがSE(システム・エンジニア)の欠員があって募集していたのでオサムを誘ったわけや。
後でわかったことやが、オサムが採用され易いようにとツヨシが裏で大阪支店の総務課長に働きかけていたという。
面接日までには中1日しかないということもあり、急いで散髪し、近所にある母の実家で叔父からネクタイの結び方を教えてもらい、同い年だった従兄弟のスーツを借りて着て行った。
しかし、背格好は同じでも、オサムはムキムキのマッチョだったために借りてきた衣装だというのがまる分かりやった。
オサムにとっては生まれて初めての面接試験やったが、「何とかなるやろ」と気楽に考えていた。
その雰囲気を察したのか、ツヨシに頼まれていた総務課長が「面接では……という質問には……という風に答えた方がいいよ」と盛んにアドバイスしていた。
面接官は、そこの支店長やった。
「君はSE(システムエンジニア)志望ということだけど、履歴書を見る限り、それらしきこと事は書いてないね。どこでコンピューターの勉強したの?」
「コンピューターは見たこともありません」
「何!」
「同じ人間がやってることですから、努力すればできるハズだと思っています」
支店長はオサムを睨みつけた後、ニャっと笑いながら言った。
「気に入った。それでは、早速、当社で努力して貰おうか」
コントのようなやり取りやったが、それで一部上場企業の採用が決まった。
現在、就活で四苦八苦しながら面接をしている若い人たちからすれば信じられない夢のような話やと思うが、事実である。
よほど、その支店長に人を見る目があったのか、他に人材が見当たらなかったのかは定かやないが、面接試験の採点を度外視した決定やったのは間違いない。
面接試験の場で堂々とそう言い放ったオサムもやが、採用した支店長も並外れた度量の持ち主やったと言うしかない。
オサムは入社して4年目頃から、システムの開発を任されるようになった。
「同じ人間がやってることですから、努力すればできるハズだと思っています」と啖呵を切ったことが現実になり始めたのである。
1976年当時、K計算機が開発していたオフコン(オフィス・コンピューター)は、オフコン業界でも競争力の無い貧弱なモノやった。
K計算機では電卓やデジタル時計がメインでオフコンなどのシステム機器は売上の3%程度しかなかったため、顧客も「えっ、Kさんてオフコンもやってたの?」と意外そうに言う人が多かった。
「家が売れれば、電化製品もついでに売れる」というのと同じ理屈で、コンピュータの世界でも、メインの大型機を売ることが重要な時代やった。
その頃のK計算機は、いろんな業種に端末機を大量納入していたが、メイン+端末でなく、オフコンが中心の世の中になりつつある中で、強力なメイン・マシンにもなるオフコンが必須だった。
「世の中に無いものを自前で開発して、最高の品質でどこよりも安く売る」ことがK計算機の企業理念やったからや。
しかし、高性能のコンピュータを自前で開発するのに、年商3,000億円程度の企業では人も金も経験も足らんかった。
そこで優秀と謳われていたシステム機器の開発本部にいた先輩のキダが、米国製のミニコン(ミニコンピーター)を核にしたモノをOEM供給させたのである。
OEM供給とは、発注元企業の名義やブランド名で販売される製品を製造することを言う。
要するに『米国製のミニコンを核にしたモノ』をパクって、いや改良を加えてK計算機製のミニコンとして売り出したわけや。
ちなみに、米国製のミニコンというのは原子力潜水艦のICBM弾道制御に使われていたモノやったと後に分かった。
オサムは研修所でこのミニコンの研修を受け、コボル(共通事務処理用言語)でプログラミングすることを教わった。
それまでは端末に毛の生えた様なオフコンで、アセンブラ(初期の機械語プログラム)以下の原始的なマシン語でプログラムを組んでいた。
CPUのメモリーではなく番地の付いたレジスターにデータを放り込んで計算させるような仕組みで、今のプログラマーが聞いたら呆れるような言語仕様やった。
おかげで、ハードとソフトの関わり方が体感的に染み付いたとオサムは言う。
自分が書いたフローチャートどおりにコボルでコーディングするだけでプログラムが完成する喜びに触れたと。
正直、ハカセもワシも、こう説明されても何が何やらさっぱり意味が分からず理解不能やった。
まあ、機械音痴のワシがそう言うのは当然としても、ハカセですら頭が混乱すると言うてたくらいやさかい、よほど難しいのやろうと思う。
よく分からず、文章にするというのも無責任な話やが、これでも分かる人には分かるらしいので、分からないという人は、そのまま聞き流して貰って構わない。
とにかく、その方面に造詣のない人にとっては、とんでもないことをオサムがやっていたと理解してくれるだけでええ。
オサムはミニコンの研修のおかげで「これがホンマもんのコンピューターや」と実感したという。
研修を終えてしばらくしたある日、当時のシステム営業担当課長が、「君にしかできない開発をお願いしたいんだけど……」と言ってきた。
オサムに限らず、人はこう言われると断ることができない。最強の依頼言葉である。
その開発というのが、「新聞販売店の販売管理システム」やった。
K計算機ではシステム機器も代理店販売していた。その販売代理店が、後に第4の就職先として骨を埋めることになるD社である。
当時、オフコンの販売は、特定の業種をターゲットにしてパッケージ・システムを開発し、大量販売するという今のパソコン・ソフトのようなやり方は稀で、同じ業界で紹介販売するのが普通やった。
その場合でも、客先ごとに要件を整理してシステムを再設計し、プログラムを組んでいくのが一般的やったという。
つまり、純粋なオーダー・メードか、イージー・オーダーが主流やったわけや。
特定の業種のシステムを最初に開発する時は、その業種について徹底的に調査し、 業務の流れから経理的な処理、人の関わりなどを、当の本人以上に詳しく知る必要がある。
人は自分が無意識にこなしているルーティン(日々の決まり切った仕事)に含まれる様々な要素を明確に意識していない場合が多いので、やり方が変わると新たな問題が生じるであろうことを、想像できにくくなる。
オサムは、システム導入の決まった新聞店の2階に3ヶ月間寝泊まりして、番頭格のマツさんにいろいろ訊きながら、仕様書を書き、未だどこにも納品実績のないミニコン用に、生まれて初めて習ったコボルでプログラムを書いた。
「新聞のことを知ってるSEが来るから3ヶ月で発証できる」と聞かされていたマツさんは、ヒアリングを始めてすぐに、「君、新聞の事を何も知らんやろ」とカマをかけられた。見破られていたわけや。
オサムは正直に「そうです」と認めると、「全部教えるからじっくり聞け。お互いにその方が、ええから」と言われ、すぐに打ち解けた。
ミニコン+オフコン(端末)なので、コボルとマシン語でコーディングしていくのやが、初めてのミニコンで、大阪に分かる人などおらず、何かにつけて東京の本部に電話で問い合わせていた。
2階の電話代が異常に高くなっていたことで「君、コンピューターも初めてとちゃうんか」とマツさんに、そのこともバレてしまった。
ミニコン+オフコンなので汎用インターフェイスというものがなかったため、オサムは、大阪の梅田にある大型書店、旭屋で買った本でIBM社のトークンリング(LANの物理層およびデータリンク層の規格)を見つけ、それを模してLANを手作りした。
今、現役のSEにそんな課題を出してできる者は皆無やろうとオサムは思っている。100人が100人「無理!」と答えるはずだと。
しかし、オサムには無理もクソもなかった。3ヶ月で領収証を出す約束をして、数千万円の契約を交わしていたから、何としてもやり切るしかなかった。
依頼された販売店はY新聞系では5万部近くを扱う大規模販売店で、その部数の発証が遅れると、納金用に莫大な資金が必要になる。
「できませんでした」では済まないのである。できなくてもやらなくてはいけない。オサムには外に選択肢はなかった。
結局、約束の日から2日遅れてしまい、「先生! ボクはね、これまで、どれだけ銀行に頼まれても、無借金経営で来たんですけどね、先生のために、ボクは生まれて初めて銀行から借り入れしましたよ!」と、店主が顔を紅潮させて言った。
「先生」とはオサムのことで、その店主から、それほど信頼されていたことになる。
そんなこんなで、「ミサイル原潜用ミニコンで発証する」という、一風変わった仕事が、新聞業界と関わることになる始まりやったとオサムは言う。
当時のオサムにとっては、業務用システム開発の案件の一つに過ぎなかったが、新聞業界にコンピューターが導入されるキッカケになった画期的な出来事やったわけや。
それからしばらくの間、新聞業界とは音沙汰がなくなり、オサムは29歳で結婚して広島に転勤になった。
その半年後にSEから営業に部署が変わり、代理店を担当することになった。
その後、オサムはいろいろあって広島でK計算機を退社し、地元のレンタル・テナント会社に2年ほどやったが勤めた。
その間、地方紙と全国紙の販売店との付き合いであったり、広島ヤクザと揉めたりといった事など、他ではなかなか経験できないような貴重な体験話を数多くオサムから聞いている。
その時の話も面白いのやが、話し出すと長くなるので、それはまたの機会にしたいと思う。
ここでは少し飛ぶが、いよいよオサムがD社に入社することになった経緯について話すことにする。
結果的に、6年以上広島で生活し、2人の子供も広島で生まれ、近所の人たちも良い人ばかりで、思い出深い土地やったが、取り敢えず大阪へ帰ろうとオサムは思い立った。
その時、以前「うちに来ないか」と誘ってくれていたD社のナベさんを思い出し電話した。
「この前、ウチに来てくれて言ってましたね。今なら行ってもいいですよ」
「何十年前の話やねん、それは。まあええわ、大阪へ帰って来るんやったら、会うて話でもしようか」
そういう経緯で、オサムはD社に押しかけ、27年間在職し、殆どの間、新聞販売店さんにお世話になったのだと言う。
入社する時の大義名分は、K計算機時代に出したレポートがそのままで、新聞販売管理システムを設計、開発、販売、アフター・フォローをするのための体制を確立して、新聞店さんとのパイプを強固にし、結果として折込機その他諸々の機器のシェアもアップさせたい、ということにした。
紆余曲折はあったが、最初の12年で大義名分を果たしたとオサムは自負していると言う。
その後D社は新聞業界で最大のシステム・フォロー体制を持つまでに至っていると。
ちなみにD社のSEの多くは元新聞奨学生やったという。
元新聞奨学生ほど新聞業界の過酷さを肌で感じている人たちは少ないやろうから、システム・フォローするには最適任やとワシも思う。
ワシも事ある毎にいろいろなところで言うてるが、彼らほど頭脳と体力、忍耐力に秀でた人材は新聞業界には他におらんさかいな。
オサムの後半の15年間は、新聞店への提案が殆どやったという。
もっとも、机上の理論ばかりが先行して空回りする事が多々あったし、試行錯誤、手探りしながら進める過程で多くの販売店の人たちに協力して頂いて、何とかやって来られたわけやがな。
昨今、新聞の部数が減少傾向にある中、新聞店にとっての新たな収益源を確保するべく、異業種との取り組みを模索したこともある。
3年かけて市場テストまで漕ぎつけた挙句、東日本大震災で頓挫した試みもあった。
「お客様のお客様が喜ぶことを提案することが、お客様の商売繁盛につながる」という信念のもと、販売店さん自身が、エリア内の「お客様」にできる様々な取り組みや金品に頼らないサービスについて、いろいろな提案を続けてきたという自負もある。
それらについても後日、話す機会が持てたらとオサムは言う。
昨年、定年退職する直前、K計算機時代にオサムが設計したシステムからD社時代に設計したシステムに買い替えて頂いた広島の販売店があった。
実に30年以上もK計算機時代のシステムを使い続けていたという。オサムにとっては本当に有り難い「お客様」である。
その契約の折り、販売店店主の方が、K計算機時代のオサムの古い名刺を、わざわざ持って来てD社の広島支店長に見せたと言う。
オサムは、その話を聞いて胸が熱くなった。
オサムはD社を退社したが、こういった「お客様」がおられる新聞業界のために少しでも役に立てるような事を今後も続けたいと話す。
オサムが26年前に設計・開発した全戸管理システムは、現読・無読に関わらず、知り得るあらゆる情報を登録し、キーワードで多角的に検索できるようになっており、Y系以外では近畿でトップのシェア(1000S以上)があるという。
まさしく、この話の様な「メッセージ」を全員が共有しておくためにも使われているわけや。
現在のバージョンはオサムの後輩たちが改良と拡張を加え、アフター・フォローを続けてくれていることもあり、さらに進化している。今後もそれは変わらないはずだ。
今では、デジタルMAPとも連携し、拡張用の地図にメッセージを吹き出し表示させることもできるし、紙にプリント・アウトするのはもちろん、アイ・フォンで見ることも、アイ・フォンに直接メッセージを入れて無線でサーバーに飛ばすこともできるようになっている。
細々とした点を言い出せばきりがないほど多いが、「全戸管理システム」という名前に恥じない能力を持っているとオサムは胸を張れると言う。
それにしても、その「全戸管理システム」を開発するために、原子力潜水艦のICBM弾道制御に使われていた米国製のミニコンからヒントを得たというのは何とも凄い話やと思う。
もともとエネルギー確保という平和目的のためにアインシュタインが相対性理論の中で提唱していた太陽核融合説が、いつのまにか原爆を作るという戦争目的の技術に変えられたように、
その逆、戦争目的に開発された弾道ミサイルの制御システムが、日本の新聞販売店の「全戸管理システム」に利用されることもあると知って、関係のないワシらでもなぜか世界に誇れる気分になった。
戦争とは、まったく関係のない究極の平和利用やないかと。
ワシがノーベル賞の選考委員なら、間違いなくオサムに「ノーベル平和賞」を贈る。それくらい凄いことや思う。
それにしても人は、どんなに便利な物でも扱い方次第では凶器に変わるし、どんなに危険な武器でも平和的に使える場合もあるということを今更ながらに分からせて貰ろうた話やった。
料理を作るためには欠かせない包丁も人を殺傷する凶器になるし、人や物を運ぶ便利な自動車も一歩間違えば殺人マシーンと化す。
その反対に、もともとは戦争目的に開発された人工衛星も今では大半が、通信機能の発達、気象観測やGPS機能の充実といった最早人類の生活になくてはならないほどの多大な貢献をしていると多くの人が知っている。
その証拠に「人工衛星」と聞いて、どれだけの人が「戦争のための道具」やと認識するかということを考えて貰えれば、それがよく分かるやろうと思う。
おそらく大半の人が、「人工衛星」は平和利用されていると答えるはずや。
今後も、そんなオサム氏の話をしたいと考えとるが、如何せん書いているハカセが、オサム氏のレベルについていけず、寄せて頂く話をよく理解していないような状態では読者にちゃんと伝えられないと思うので、これから猛特訓して勉強すると言うてた。
付け焼き刃やが、オサム氏のような専門家になるわけでもなく、読者に「大体、こんなものや」と伝えられたらええだけやさかい、それで十分やと思う。
もっとも、今はそのレベルにすらないとハカセは嘆いているがな。
今回の話も読者の方々に、どこまで伝わったか甚だ疑問やと。
「おじいちゃん、バイバイ。また来るからね」
オサムは、大きく手を頭の上で振り続けながら帰って行く我が愛すべき孫の悪童を見送りながら、「あの子のためにも、まだまだ頑張らなあかんな」と思いを新たにした。
当たり前やが、定年退職は終わりやない。D社が第4の道なら、これから第5の道を見つければ良い。第5の道に挫折すれば第6の道がある。
生きている限り人生にリタイアはない。物語なら、いつ終わっても絵になるし、様にもなるが、人生はそうはいかん。
どんなに格好良くても、どんなに無様でも、人生は死ぬまでの間、誰の身にも等しく続くからだ。
同じ続くのなら、少しでも意味のあるものにせな損や。
オサムは孫の小さな背中に限りない可能性を確信しながら、そう考えていた。
己にもまだ僅かながらでも可能性が残されていると。そう信じたいと。
参考ページ
注1.第275回 ゲンさんの新聞業界裏話 第1回「新聞拡張員ゲンさんの嘆き」オフサイト・セミナー
http://siratuka.sakura.ne.jp/newpage19-275.html
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